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2019-02-19

私の“奇跡の一枚” 連載3 「新十両紹介写真」

※写真上=望遠レンズを使い、時津風部屋の看板の前で撮った写真。夢と希望にあふれた力士、闘志を内に秘めた穏やかで真面目な青年、21歳の大潮の面目が躍如としている 
写真:月刊相撲

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。

「双葉山道場」の名につながる力士の誇り

 私は平成25年(2013)1月に協会の停年を迎えるが、それを目前にした24年春、我が部屋から初の関取、新十両千昇が誕生した。独立したのが平成4年4月だから、実に20年という歳月を要したわけである。多くの皆さんに祝福していただくなかで、さまざまな思いが去来している。 

 そのなかで最も大きなものは、「双葉山道場」。つまり時津風部屋の流れをくむ人間で良かったという思いである。大横綱双葉山が興し、名大関豊山が引き継いだ部屋の人間であることを誇りに、この名を汚すことだけは決してすまいと、真っ正直に生きてきたから今日があるのだ。私が40歳まで相撲を取り続けることができたのも、その一念ゆえ。

 さて、この写真は昭和44年(1969)の九州場所前、新十両力士として『相撲』誌に紹介されたときのものである。

 私は道場のホープと呼ばれながら、幕下上位の壁に何度も跳ね返されていた。そんな時、大好きだった祖母と、偉大な師匠双葉山を43年12月に相次いで失ったのである。その葬儀や告別式に、紋付も着られないで出席している自分があまりにも情けなかった。このままでは申し訳ない……。私の稽古への取り組み方が違ったのはそれからである。

 翌年、新十両をつかんだ私は取材を受ける身となった。当時の報道写真としては斬新だったこのポーズは、『相撲』編集部に入社したてだったS氏(のち編集長)の注文によるもの。アマチュアカメラマン上がりで、意欲的だった氏は、これから道場を背負って立つんだという心意気を撮りたい、と言った。しかし私自身にそんな大それた思いはなく、ただただこの部屋の名を大切にがんばりますよ、という感じでカメラの前に立った。

 周囲の評判も良かったこともあって、この写真は私がその後、通算出場記録(1891回。歴代1位)をつくるまで長く相撲を取り続ける気持ちの励みとなった。

千昇(※大潮の通算勝ち星記録=964勝=を超えてほしい、との願いを込めて命名)の新十両を機に、私は、四十数年前のこの写真を懐かしく思い出している。

私の部屋づくりにせめてもの自負があるとしたら、『道場』精神を、私同様、弟子たちがみな持ってくれていることである。彼らが私の敬愛する師匠豊山の内田夫妻を祖父母のように慕っていることでも、それは分かっていただけるかと思う。折から双葉山生誕100年――。(談)

語り部=先代式守秀五郎(元小結・大潮)

愛弟子・千昇の師に対する態度からも『道場』精神が見事に受け継がれていることが分かる 
写真:月刊相撲

月刊『相撲』平成24年4月号掲載

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