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2026-09-25

崩壊寸前の日本プロレスが緊急帰国させた「ヤングエース」高千穂明久【プロレス史あの日、あの時1972年9月16日/週刊プロレス】

凱旋した高千穂のファイトを報じる「プロレス」1972年11月号(週刊プロレスmobileプレミアムで配信中)

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1972年9月16日
新日本「ニュー・ゴールデン・シリーズ」開幕戦@茨城・土浦スポーツセンター/日本「第2次サマー・シリーズ」第14戦@茨城・笠間市立体育館
 
手元に1972年9月17日に発行された「東京スポーツ」があるが、前夜に茨城県内(新日本は土浦、日本は笠間)で同時間に開催された「ローカル興行合戦」を報じている。当時の日本プロレス・エースは坂口征二。8月まで日本プロレスの大黒柱だったジャイアント馬場がフリーとなって10月から「全日本プロレス」の旗揚げを内定し(まだ、試合はしていない)、この時期の興行報道については新日本(アントニオ猪木)と日本(坂口)の2団体が、連日プロレス面を賑わせていた(国際はシリーズ・オフ)。今となっては信じられない話だが、この時期の日本プロレスは週に2回(月曜&金曜)もゴールデンタイム(夜8~9時)で中継がおこなわれており(NET=現・テレビ朝日、週2回は9月いっぱいで終了し、10月からは週イチに変更)、「坂口の露出度」は凄かった。テレビを持たない猪木にとっては「新聞と雑誌だけが頼り」の時期だったので、東京スポーツが若干「猪木贔屓(びいき)」のスタンスだったのも仕方あるまい。

前年12月の猪木に続いて、8月に馬場まで失った日本プロレスは、坂口と大木金太郎が奮戦してシリーズを懸命に盛り上げていたが、テレビ視聴率も観客動員も急降下。この日(16日)には新たな主力として高千穂明久(当時24歳=のちのグレート・カブキ)の凱旋帰国を発表して、人気凋落に歯止めをかけようと躍起になっていた(9月19日に帰国)。高千穂は1970年9月にアメリカ武者修行に出てロサンゼルス、デトロイトの2大テリトリーを転戦。ミツ・荒川とのコンビで五大湖地区のUSタッグや団体創設期のNWF世界タッグ王座などを獲得してトップグループの仲間入りを果たしており、団体とNETテレビの期待が双肩にかけられた。高千穂からしてみれば「馬場さんと猪木さんの抜けた穴を埋める? 勘弁してくださいよ」という心境だったろうが、団体幹部(芳の里、遠藤幸吉、吉村道明)からすると「もう、頼れるのは高千穂だけ」という状況に追い込まれていた。

2010年夏、世田谷の二子玉川にある割烹で坂口氏本人に聞いたことがあったが、この時期あたりから所属レスラーに対し「ファイトマネーの大幅減額」が始まり、12月には全くでなくなっていたそうだ。

「もう選手会も機能していなかったし、所属レスラーはみんな、貯金の食い潰し。合宿所はあったけどチャンコの金もないし、若手選手はみな、親戚や友人の家に身を寄せて世話になっていた」(坂口)

高千穂の凱旋帰国で秋の「第3回NWAタッグリーグ戦」はそこそこの盛り上がりを見せたが、起爆剤もそこまで。12月の「インター・チャンピオン・シリーズ」には大物(ジン・キニスキー、ボボ・ブラジル、キラー・カール・コックス)を大挙招聘して最後の勝負をかけたが、各会場は閑古鳥が鳴いて視聴率も5%を切るようになっていった。翌年(1973年)3月いっぱいでNETテレビの放送も打ち切られて「万事休す」。坂口は猪木に合流して新日本に移籍し、高千穂は大木らと共に馬場・全日本に引き取られ、力道山が1953年に創設した日本プロレスは20年の歴史にピリオドを打った。この頃に高校生だった私は「20年の歴史に幕? さすが日本プロレス、すごく長い活動期間だったんだなあ」と思っていたが、2026年の9月現在、新日本と全日本が共に54年という超ロングな歴史を刻んでいるのだから驚く。

流 智美

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