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2026-10-09

「史上最高ゲート」を逃したビンス・マクマホン(シニア)の地団太【プロレス史あの日、あの時1972年9月30日/週刊プロレス】

モラレスvsサンマルチノのWWWFヘビー級戦を報じた「プロレス」1972年11月号(週刊プロレスmobileプレミアムで配信中)

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1972年9月30日
WWWFヘビー級選手権試合◎ペドロ・モラレスvsブルーノ・サンマルチノ@ニューヨーク・シェイスタジアム
 
本稿のペドロ・モラレス(王者=当時30歳)対ブルーノ・サンマルチノ(挑戦者=当時37歳)のWWWFヘビー級選手権試合は、アメリカのプロレス史上、3本の指に入る「ベビーフェイス同士による世紀の対決」だった。少なくとも東部WWWF(現・WWE)地区においては、これ以上の「世紀の対決」はなかったと思う。月1回の定期戦が開催されていたMSG(マジソン・スクエア・ガーデン)では「キャパシティが足りない」と判断したビンス・マクマホン(シニア)は、当時ニューヨーク・メッツの本拠地だったシェイ(シェア)・スタジアムで勝負に出た。前年(1971年)1月に腰痛悪化のため伏兵のイワン・コロフに完敗して7年8カ月の王座から転落したサンマルチノは見事にカムバックを果たし、親友でもあった後輩のモラレスに挑戦を表明。王者モラレスもこれを快く受けて立ち、空前のビッグカードが実現した。わざわざ日本からジャイアント馬場(全日本を旗揚げする前月)が現地に出向いたことも、この試合がいかに重要だったかを証明している。

マクマホンがMSGではなく、球場の興行に踏み切ったのには大きな理由があった。それは、プロレス興行史上の「収益(入場料収入)の最高数字」をゲットしたかったことにある。テレビ普及による戦後のプロレス・ブームが起こって以降、まず1952年5月21日、ロサンゼルスのギルモア・フィールドでジョニー・ドイルが初の10万ドル越え($103,277)を達成(メインはルー・テーズ対バロン・リオーニのNWA世界戦)。この記録は長く続いたが、1961年6月30日にシカゴでフレッド・コーラーが更新($141,345、メインはパット・オコーナー対バディ・ロジャースのNWA世界戦)。この記録も10年破られなかったが、1971年8月27日、ロスのマイク・ラベールがロサンゼルス・コロシアムで$142,158を達成して記録を更新した(メインはフレッド・ブラッシー対ジョン・トロス)。アメリカ大陸で最大人口を誇るニューヨークのマクマホンは、どうしても「過去最高の数字」を達成したかった。そこで遂に出した「切り札」が、本稿のモラレス対サンマルチノだったというのが経緯である。

シェイ・スタジアムの収容人数は約4万人だから、新記録達成は確実視された。この日にミネソタ州セントポールから取材に行った「レスリング・ニュース」のジム・メルビーは、この日について次のように述懐してくれた。

「前売りは好調で、間違いなく記録は達成されると思いました。ところが、ニューヨークは前日の夜から猛烈な寒波と大雨で最悪の気候になり、試合当日もなんとか雨は止んだものの、コートがなければ耐えられないほどの寒さでした。当日券が全く売れずに、結局、来場した観客は2万ちょっと(2万2508人)。ゲートもロサンゼルスの記録を更新できずに($140,923)、マクマホンは大魚を逃した形になりました。取材していて両手が凍るようになって痛いくらいだったので、リング上のモラレスとサンマルチノも寒かったと思いますね」

試合は72分(誌面では75分となっているが)闘ったところで23時になり、ニューヨーク市条例である「カーフュー=23時以降の興行は中止」に従ってノーフォールのまま時間切れ引き分け。モラレスの王座防衛となってサンマルチノの王座カムバックはならなかった。マクマホンが捲土重来を期して興行記録を更新したのは4年後の1976年6月25日。同じシェイ・スタジアムで開催したアントニオ猪木対モハメド・アリ(宇宙中継)とB・サンマルチノ対スタン・ハンセンのダブルメインで、3万1928人の観衆を集めて39万879ドルと大幅な更新を達成し、「ニューヨークのボス」として溜飲を下げた。

流 智美

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