相手の力が実力上位、と言ってしまえばそれまでだが、苦手ぶりもここまで完璧だと、お見事というほかはない。

※写真上=昭和54年秋場所8日目、20回目の対戦で初めて横綱北の湖を撃破した
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】序ノ口で6勝1敗と大勝ちしながら、千秋楽の夜、突然脱走。それから3年後、再び片男波部屋の門をくぐると順調に出世を続けた。だが、十両2場所目、序ノ口で対戦して快勝していた琴乃富士に惨敗。天狗の鼻をへし折られ、改めて気合を入れ直した――

19連敗も「撒き餌作戦」で初勝利

 玉ノ富士が十両を4場所で通過、入幕したのは昭和49(1974)年秋場所のことだった。そして、翌年夏場所、前頭上位に進出。5日目、その力士と初めて対戦した。当時22歳、横綱5場所目の北の湖だ。

 もちろん、この初対戦は、日の出の勢いの北の湖にまるっきり相撲を取らせてもらえず、玉ノ富士の完敗だった。そして、なんとこの完敗劇がそれから丸4年、19回も続いたのである。

「あの人は、アンコ型のくせに前後左右、どっちにも強く、しかも、突っ張ってよし、組んでよしでしたからねえ。巡業先で稽古をつけてもらっていても、付け入るスキを全然見付けられないんですよ。この世に、こんな強い人がいるのか、と本気で思いました」

 と、片男波親方(元関脇玉ノ富士)は実感をこめて話す。

 この対戦を重ねるたびに自信喪失の泥沼に突き落とされる北の湖に、どうやって一矢報いるか。これが幕内上位に定着した玉ノ富士の、寝ても覚めても神経を逆なでする最大の悩みであり、屈辱だった。

 この連敗がまだ一ケタのときは、北の湖が土俵に上がると、どこかに攻略の糸口はないか、ほかの力士たちはどうやって攻めているか、と必死に目を凝らしたものだった。しかし、52年名古屋場所から11場所連続して対戦し、11連敗したときは、さすがに、もうどうにでもなれ、とヤケッパチの心境に陥っている。

 しかし、同じプロである以上、このままおめおめとは引き下がれない。この玉ノ富士のあくなき意地と執念が、もうこれしかない、という最後の秘策を思い付かせた。

 この11場所連続黒星の最後の3場所、玉ノ富士は、まるで勝つことをあきらめてしまったように、ただ頭から思い切って突っ込み、北の湖にいいようにヒネられる、という相撲をひたすら取り続けた。

 これが実は撒き餌。そして、2場所置いた54年秋場所8日目、通算20回目の対戦のとき、ころやよし、とばかり、それまでとは一転。玉ノ富士は、立ち合い、いつものように当たると見せかけてサッと右に変わり、上手を取って出し投げを打った。この意表を突いた作戦に、天敵・北の湖がたたらを踏むところをつけ入り、サッと得意の右を差し、そのまま一気に寄り切ってしまったのだ。

 3場所を犠牲にし、1勝をもぎ取るという「撒き餌作戦」が、まんまと的中したのである。行司の軍配が高々と自分の方を指しているのを見た瞬間、玉ノ富士は、感激のあまり、体がワナワナと震えるのを抑えることができなかった。

「連敗中、オレも悔しかったけど、うちの師匠も、決して口には出さなかったけど、相当情けない思いをしていたんだねえ。あの横綱に勝った夜、おかげさんで勝ちました、と報告に行くと、ものすごく喜んでね。これはご褒美だと言って、もう正確な金額は忘れたけど、20万円ぐらいくれましたよ。あんなこと、後にも先にも初めてだったなあ」

 と、片男波親方はいかにも懐かしそうにこの日のことを振り返った。

 どんな強敵も、工夫次第では倒せる。この日、玉ノ富士はやっと自分に対する自信を取り戻すことに成功したのだった。ただ、惜しむらくは、このとき、29歳10カ月だったことだ。もしこの天敵退治が3年早かったら、玉ノ富士の力士人生も、もっと違ったものになっていたに違いない。

 2勝23敗。これが玉ノ富士の対北の湖戦の成績だ。もう1勝は、この“20度目の正直”の翌場所、まだこのカモに思いがけない反撃を食ったショックが消えていないところを連破したのである。(続)

PROFILE
玉ノ富士茂◎本名・阿久津→大野茂。昭和24年11月24日、栃木県那須郡那珂川町出身。片男波部屋。185cm127kg。昭和42年夏場所、本名の阿久津で初土俵。翌名古屋場所、玉ノ冨士に改名。45年秋場所、再入門。48年九州場所新十両。49年秋場所新入幕。50年九州場所、玉ノ富士。最高位関脇。幕内通算41場所、289勝326敗。殊勲賞1回、敢闘賞2回。56年九州場所に引退し、年寄湊川を襲名。62年10月、片男波に名跡交換し、部屋を継承。関脇玉春日、玉乃島、前頭玉海力、玉力道らを育てる。平成22年2月に玉春日に部屋を譲り、楯山として部屋付き親方に。31年4月に退職。

『VANVAN相撲界』平成6年5月号掲載

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