北の湖さんは、先代の三保ケ関親方(元大関増位山大志郎《父》)に見いだされ、中学生の時にはもう幕下力士として土俵に上っていらっしゃいました。師匠は双葉山時代の名力士で、戦前戦後の大相撲存続の危機もよく知るお方でした。双葉山を理想としてその横綱像を北の湖関に徹底的にたたき込む一方、当時としては画期的、リベラルな考え方に基づいて家庭的な部屋づくり、教育をされていたようです。

※写真上=威厳ある理事長がたまにこぼしてくださった笑顔はまさに値千金(表面に愛想がないぶん、その誠実さ、義理堅さが伝わり、人気商売特有のファン、お客さんの異動がない方でした)
写真:月刊相撲

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

何より大切な力士たち

 そんな中で、土俵では憎らしいほど強い横綱、でも土俵を離れたら心優しく、余計なことも言わない代りに人情味豊か。そんな北の湖さんのお人柄が出来上がっていったのではないでしょうか。

 私の祖父は明治時代の横綱で常陸山と申しますが、普段は厳しい顔をしていましたが、大らかさの中に細やかさがある人だったと聞いております。私は北の湖理事長の切れ長の目に祖父と似たものを感じ、大横綱というのはやっぱり強いばかりの人じゃないんだな、としばしば思わされたものです。

 結婚されたとき、横綱から「力士はウチの使用人じゃないんだから、彼らを私用で使うことは絶対にダメ」と厳しく言いわたされたと、おかみさんのとみ子夫人からお聞きしたことがあります。これも親方が本当に、一生懸命精進している力士たちのことを思いやっていたひとつの証拠ではないでしょうか。また残念ながら不祥事のためやめていくことになった力士の将来まで本当に心配していたとうかがっております。160人を超える力士を預かりながら、その門下のお弟子さんから、通常よくある恨みつらみの言葉を私は一つも聞いたことがありません。

何事も全身全霊で対処

 理事長として、私たち案内所(茶屋)関係者と交渉する際も、大きな胸で親身に何でもどーんと受け止め、即答してくださいました。そしてそれは一見地味、平凡なようでも、大相撲の来し方を的確に振り返ったうえで、頭のコンピューターを高速回転させての的確なお答えだったように思います。

 5年前の平成23(2011)年春場所が、無気力相撲の不祥事のため中止になったときのこと。大阪のお茶屋の営業が立ち行かなくなり、すべてのお茶屋がつぶれてもおかしくないような状態でしたが、前回理事長を降り、大阪部長を務められていた親方が、「大相撲にとって大事なお茶屋をつぶすわけにはいかない」と信念を持って奔走、救済策を立ててくださったからこそ、今も営業させていただいていると感謝しております。

 普段ムスッとしていても心に優しさをいっぱいたたえた理事長は、平成に入って最大の課題、公益財団法人化を見事に成し遂げられました。何をするにも一生懸命で、こうと決めたら周りの評判はどうあろうと、後悔はなさらず信念を貫かれた方だと思います。

 このたびの逝去は「悔しい、あまりに早過ぎる」というのがファンや関係者の偽らざる気持ちだと思います。でも、いまもしお話が聞けるとしても、理事長のお口からは、現役引退のときと同じように「悔いはありません」という言葉しか出てこないでしょうし、私たちにも涙はいらないとおっしゃるんでしょうね。

 でも、親方、これだけは聞いてください。

 相撲は力士の世界、という親方の教えをきちんと受けて、ほとんど表に出なかったおかみさんが、この前、協会葬のお見送りが終わった後、親方へのお恨みをしみじみとおっしゃっていましたよ。

「親方ったら、私が一番苦手なことを、一番最後にやらせるなんてね」と……。理事長、やっぱりあまりに早過ぎではありませんか。合掌

語り部=市毛弘子【相撲案内所「高砂家(東京)」「勝恵美(大阪)」おかみ】

月刊『相撲』平成28年2月号掲載

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