ところが、幕下に上がった途端、障害知らずだった軽やかな足どりに急ブレーキがかかった。現在ではほとんど見られなくなったが、おなかの中に寄生虫が発生する病気で、体がだんだんやせ細ってきたのである。このためその年の秋場所から一転して負け越しが続くようになったのだ。

※写真上=昭和38年夏場所、十両優勝を果たし、入幕への足がかりをつくる(当時麒麟児)
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】文武両道に秀でた堤少年が、高校進学をあきらめて佐賀から上京。満たせなくなった向学心を稽古に向け、出世は順調そのもの。初土俵から2年後の秋場所には早くも幕下に駆け上がった――

案ずるより産むが易し、寄生虫の正体

 18歳前後というと、最も感受性が強い年代だ。ただでさえ面目を重んじる武士道の里出身の大麒麟にとって、

「おなかに寄生虫がわいた」

 というのは、とても他人には言えないことだった。このため、薬局でこっそり虫くだしの薬を買ってきては飲んでいたが、いっこうにはかばかしくない。

 ――オレだけどうしてこんなことになっちゃったんだろう。みんなと違ったものを食べたワケでもないのに。ああ、このところ相撲も全然ダメ。もしかすると急にこうなったのは寄生虫のせいじゃなく、もともと素質がなかったからかも。この際、思い切ってやめたほうがいいかもなあ。でも、今さらおめおめと故郷には帰れないし。どうしよう。

 3場所連続負け越しが続き、この36年春場所前の大麒麟の煩悶は、いよいよ耐えられる限界に達していた。もう「恥ずかしい」と言っていられる状態ではなくなってしまった。力士をやめるか病院に行くか。この二者択一以外に現状を打破する方法はない。

 大麒麟は、散々ちゅうちょした末、ようやく大阪市内にある知り合いの病院に向かう決心がついた。

「なにっ? 4カ月も虫くだしの薬を飲んでいるのにいっこうにダメだって。こっちに来てちょっと腹を診せてみい。ウム。これは、そんな薬をどんなに飲んだかてくだらんわ。おまえさんのおなかの中におるんはな、回虫やなくてさなだ虫という虫やから。ほら、このドイツ製の薬をやるから飲んでみい。よう効くで」

 案ずるより産むが易し、とはこのことだ。病院の先生の底抜けに明るい声に送られて病院を出た大麒麟は、この半年、悶々として暮らした自分を振り返り、なんだ、こんなことならもっと早く来ればよかったと思った、悩んで損した気分になったのである。

 春場所、三段目東22枚目の大麒麟は、またまた3勝4敗と4場所連続して負け越した。しかし、それを吹き飛ばすような朗報も。場所の最中、例の薬の効果が現れ、とうとうさなだ虫がおなかから出てきたのだ。それは大麒麟を絶望の淵に追い込んだだけあって、10メートル近くもある長大なものだった。

 ――ああ、スカッとした。人間って、しようもないことで悲観したり、やる気を失ったりするもんなんだなあ。虫が出てきてしまったら、気分まで晴れ晴れとなって生まれ変わったみたいだ。ようし、もう田舎に帰るなんて考えず、もう一度頑張ってみるか。

 千秋楽、大麒麟の顔は兄弟弟子たちが「なんだ、コイツ。また負け越しやがったくせに」と振り返って見るぐらい明るかった。若いだけに体調さえ回復すれば、負け越し知らずで幕下まで昇進した当時の大麒麟に戻るのは時間の問題だった。

 その復活ののろしが翌夏場所の三段目優勝である。まるでこの半年間、使わずに蓄えておいたエネルギーを一気に燃焼させるように、この場所を境に大麒麟の目を見張るような第二次噴射が始まったのだ。

 次の名古屋場所には早くも幕下に復帰、その後の1年間で負け越したのはたった1場所だけ。なんと翌年の名古屋場所には、20歳という若さで十両に昇進してしまった。

「あのとき、田舎に帰っていたら、オレは今ごろどんな人生を歩いていただろうか。短兵急に結論を出さなくて本当によかった」

 その後、大麒麟は折に触れ考えたものだった。

 結論を急いではいけない。全長10メートルものさなだ虫が、大麒麟に得難い貴重な人生訓を教えてくれたのである。(続)

PROFILE
大麒麟将能◎本名・堤将能。昭和17年6月20日、佐賀県佐賀市出身。二所ノ関部屋。182cm140kg。昭和33年夏場所、本名の堤で初土俵。37年名古屋場所新十両、麒麟児に改名。38年秋場所新入幕。45年夏場所、大麒麟に改名。同年秋場所後、大関昇進。幕内通算58場所、473勝337敗49休。殊勲賞5回、技能賞4回。49年九州場所に引退し、年寄押尾川を襲名。50年、押尾川部屋を創設、関脇青葉城、益荒雄らを育てた。平成17年部屋を閉じ、18年6月退職。22年8月4日没、68歳。

『VANVAN相撲界』平成7年5月号掲載

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