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2021-03-09

【私の“奇跡の一枚” 連載105】史上最強の行司!? “胸毛の横綱”にござりまする~

後年高砂部屋後援会会員としてご縁ができたところからいただいたお宝――。親方の膨大なスナップ写真のなかの一枚だが、現役時代の親方の『気は優しくて力持ち』のイメージをものの見事に物語っている

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長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。

少年に心開いた超人

栃・若と柏・鵬時代のはざまで活躍した偉丈夫に、朝潮太郎(4代)という魅力的な横綱(46代)がいた。

奄美の徳之島出身で眉毛や体毛が濃く、南方風の大ぶりのハンサム。まさに相撲を取るために生まれてきたような胴長短足の巨体で、立ち合いから鶏を追うように相手を油断なく追い、左ハズ右上手で捕まえ、土俵外に運ぶ取り口。しかし、鬼のように強いときと、嘘のようにもろいときのムラがあり、その落差がまた人々に愛された。

大阪の地が肌に合って、春場所の優勝が多く(5回中4回)、3回を重ねるに至って「大阪太郎」の異名が奉られた。

その容貌、相撲ともに老若男女に、人気があったお相撲さん。しかし、その土俵上を見ている分にはいいが、少年たちが直接会うには、やはり近づきがたい、超人的なイメージがあったことも事実。

少年たちとの触れ合い

当時の相撲界は、まだそれほど世間にフレンドリーな社会ではなかった。そんな中でお相撲さん側から、ファンに向かって積極的に心を開いて見せたのが、朝潮だった。

その師匠の高砂親方(元横綱前田山)が新しもの好きの的な人だったこともあるのだろうが、本職の相撲を離れた映画(東宝『日本誕生』の手力男命<たぢからおのみこと>役)への出演などもいとわなかった。相撲界から、当時続々と登場した少年週刊雑誌の表紙モデルとなった嚆矢も、朝潮である。

昔からお相撲さんは、子どもたちにとって「気は優しくて力持ち」の存在だった。それだけに子どもたちは憧れの力士たちに触れることを喜び、普段愛想なしの力士も土俵で豆力士相手に懸命にサービスしてくれたものだ。

最近は、もしも子どもケガしたらなどの心配や、プログラム消化の都合から巡業での少年たちとの触れ合いがほとんどなくなっているそうだが、大変残念なことである。

そんなことから、朝潮ファンだったことを誇りに私が今でも大事にしている写真を皆さんにご紹介したい。

映画の一シーンのようなきれいなショットだが、少年たちの相撲大会で、行司を務める豪力無双の朝潮である。

取組を優しく見極めたあと、あのぶっとい声であげた勝ち名乗り。受けた少年の喜びはいかばかりだったろうか。その姿を後方で見詰める少年たちの目のなんと生き生きしていることだろう!

これは多分に冗談だが、どんなに際どい勝負の判定だったとしても、“最強の行司”の権威ある判定である。物言いなど誰も付けられるわけがない。

余談ついでに、その昔、プロレスで力道山がレフリーをやり、行儀の悪いレスラーにはあの空手チョップを揮うなどして、試合の主導権をがっちり握ってリードしていた貫禄の審判ぶりが、子ども心に痛快だったことを思い出す。

力士をはじめ大人相手に貫禄を見せるばかりが横綱の在るべき姿ではない。引っ張りだこのチケットに向き合うことはもちろん必要だが、少年ファンに対する朝潮のような優しさとサービス精神は絶対に忘れてはならないと思う。

このコロナ禍時代にあたり、子どもたちと力士たちの一日も早いほほえましい触れ合いの復活を望むものである。

語り部=雑誌少年(仮名・投稿/72歳)

月刊『相撲』令和2年9月号掲載

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