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2021-04-13

【私の“奇跡の一枚” 連載106】絵番付式記念写真『戦後最多新弟子大集合!』

ちなみに“絵番付”を意識した私は、向かって右側、最後列の右端。ちゃっかり東の大関の位置!?に写り込んでいる

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長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。

満員御礼!?の相撲教習所

コロナ禍もあって、新弟子が少なくなり、番付外の力士もいなくなったことから、令和2年9月場所は前相撲も行われなかったようだ。学期末の春場所に新弟子がラッシュのように押し寄せ、“就職場所”と呼ばれた時代がウソのようだ。

私が佐渡ケ嶽部屋に入門したのは昭和51(1976)年春場所。駒澤大出身の尾形(のち幕内天ノ山。幕下付け出し)を目玉に、新弟子検査合格者の数が83人に及び、戦後最高を記録した。

4月には当然、当時蔵前国技館内にあった相撲教習所の生徒数が急増、新入生であふれ返った。その様子を如実に伝えるには、と工夫を凝らしたのが『相撲』編集部だった。

竹縄“教頭先生”(元小結鳴戸海)の許可を得た編集部員の指示により我々は、教習所横の駐車場にチョークで描かれた線に従い、ぞろぞろと並んで広がった。カメラマンは国技館の2階席に昇る広い外階段の上。

「めんどくせえなあ……」

多くの仲間はぶつぶつ言っていたが、相撲絵を勉強していた私は、「ああ、これは絵番付と同じ並びかただ!」と気がついた。

無事撮影が終わり、5月号のグラビアで紹介された写真がこれ。当時集合写真と言えば、横に何列も並んで集まる型どおりのものがほとんどだっただけに、私にとっても印象的で画期的な画像となっている。

余談だが、この写真の仕掛け人は、当時若手のパリパリだった元『相撲』編集長の下家義久氏だったという。撮影許可をもらうと、はったと駐車場を見据えるや、大字書道パフォーマンスよろしく、一気に走り回って、一筆でこの絵番付並び線を描き上げたものだったそうだ。

「やっぱり若くて体力と執念があったんだよね」

とは、40年近く経ってからの相撲絵師(私)との心を割っての思い出話。

厳しかった修業時代

たとえ鍛錬途中であっても体罰的な指導は絶対禁止が徹底している現代と違って、昭和はまだ「スパルタ教育」や「無理へんにゲンコツ」というムードが一般的な時代だった。そのため、修業に耐えきれぬ新弟子も多く、一年後には半分近くがいなくなるのが普通だった。ここに並んだ我々も例外ではなかった。

全員の顔と身体がよく見えるように撮られた力士の卵の顔を一人ひとり眺めていくと、非常に興味深く、懐かしい。読者のために、我々同期生(昭和51年春初土俵組)の顔触れを番付順(十両以上)に記しておこう。

判別に耐えるかどうかわからないが、ここには以下の力士が写っているはずである。相撲史などの本で鮮明な写真を見る機会のあった方には、ご用とお急ぎのない限り、新弟子時代の関取探しに挑戦していただきたい。

大関・北天佑、小結・隆三杉、幕内・富士乃真、琴椿、十両・維新力、大鷹、伊予櫻、桧山……。

残念ながら私は大銀杏を結うことこそできなかったが、彼らと一緒にここに写っていることが素直にうれしく、還暦を過ぎてもいよいよ燃える「相撲愛」の原点ともなっている。そうそう、こんな相撲界への感謝の気持ちが10月30日公開される大相撲ドキュメンタリー映画『相撲道―サムライを継ぐ者たち―』制作のお手伝いにもつながったとご理解いただければ幸いである。

語り部=琴剣淳弥(漫画家/元佐渡ケ嶽部屋力士)

※琴剣さんは令和3年3月26日、60歳で逝去されました。ここに哀悼の意を捧げます。

月刊『相撲』令和2年10月号掲載

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