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2021-08-06

【連載 名力士ライバル列伝】旭富士 小錦 霧島の言葉「心を燃やした好敵手たち」

しなやかな体から繰り出す天才的技能と努力で、4回の優勝を果たした旭富士

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昭和から平成へ、時代のターニングポイントにおいて、
土俵を沸かせた名力士たち。
元旭富士の伊勢ケ濱親方、小錦八十吉氏、
元霧島の陸奥親方の言葉の言葉とともに、
それぞれの名勝負、生き様を回顧する。
※平成28~30年発行『名力士風雲録』連載「ライバル列伝」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

試行錯誤のウルフ対策。常に目標を掲げたからこそ

「天才肌」「天性の相撲勘」とは、横綱旭富士を評する際に常に使われてきた枕詞。しかし、天賦の才能だけで強敵をなぎ倒し、最高位まで上り詰められることは、決して、ない。元旭富士の伊勢ケ濱親方の言葉を聞けば、むしろ「努力型」かもしれない。

「ああしろ、こうしろと言われる前に、自分で行動できる人間だったと思います。稽古場に降りてからは間髪入れず、四股、腕立て伏せ、てっぽう、ダンベル……稽古が始まれば『いい加減にしろ』と言われるまで番数をやったし、3、4時間、ずっと止まりませんでしたからね」

入門時の大島部屋の稽古は朝と夕方の二部制で、あまりの厳しさにやめていく新弟子も多かった。そんな中でも「お前ほど稽古をするヤツは見たことがない」と師匠(元大関旭國)に言われるほど相撲に励み、出稽古先の大鵬部屋で、無口な元大横綱から「根性ある!」と褒め言葉をもらうほど、一心不乱に汗を流し続けた。それほどに旭富士を突き動かしたものは何なのか。青森時代に培った、厳しい稽古に耐えうる土台があった上に「常に“目標”というものがあったからでしょう」と本人は語る。

20歳で大相撲の世界に飛び込み、まずは「1年で十両」という目標に到達。そこから壁に当たると、パワー不足と思えば筋力トレーニングを取り入れ、立ち合いが弱いと思えば、右四つ一辺倒の相撲に猛突っ張りを加えた。足りないものを常に考え、補う方法を模索。強い相手を求めて積極的に出稽古に赴いたのも、そのためだ。

「関取になってからは、ほとんど高砂部屋と井筒部屋が私の稽古場でした。特に高砂部屋は、富士櫻関、高見山関、近大の先輩の朝潮関と、押し相撲でもいろんなタイプの力士がいたし、千代の富士関や北勝海関など九重部屋の力士たちも来るので、すごくいい稽古ができたんです。一度、場所中にも行ってしまって、先々代(元横綱朝潮)に『場所中は来るんじゃない!』って怒られたこともありましたね(笑)」

新入幕というハードルを越え、2場所目の昭和58(1983)年夏には、入門時から目を掛けてくれた朝潮に恩返し。1年後の59年名古屋では、「初顔のときは興奮して、前の晩は寝られなかった」という憧れの横綱北の湖を、3度目の挑戦で初めて倒した。同門でよく稽古をしてきた北尾(のち横綱双羽黒)から鮮やかに肩透かしを引いた九州場所で、初の敢闘賞。以降は幕内上位でも勝ち越せる力が身に付き、新たに掲げた目標の「大関」へも徐々に近づきつつあった。

しかし、順調な歩みを妨げたのは、昭和61年名古屋場所で発症し、以降もたびたび苦しめられた膵臓炎。線の細い体を大きくしようと、無理に食べてきた影響だった。

「145キロくらいあった体が、入院で20キロ近くしぼんでしまった。『さあ、これから』というときでしたからね……」

奇しくも、その場所後に、ともに稽古に励んできた双羽黒が横綱、北勝海が大関昇進。以前のようにガムシャラな稽古や食事は制限されながらも、先を越された悔しさをバネに、さらなる筋トレでパワーを補いながら、次のターゲットを目指していった。(続く)

『名力士風雲録』第19号旭富士 小錦 霧島掲載

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