柏戸、大鵬に代わり時代を作ったのは北の富士、玉の海の両雄だった。
短くもまばゆいばかりの光を放った「北玉時代」。
そして早逝のライバルの強さは、どこにあったのか。
現在、NHK相撲中継の解説者を務める北の富士勝昭氏の言葉とともに、振り返ってみたい。
※平成28~30年発行『名力士風雲録』連載「ライバル列伝」を一部編集。毎週金曜日に公開します。
結局、相撲は「足腰」初優勝後、その反動のように低迷した北の富士に対し、先に横綱に近づいたのは玉の海だった。昭和42(1967)年九州場所から3場所連続準優勝し、夏場所には13勝2敗でついに初優勝。14日目、1敗で追う豊山を北の富士が破ったことで決まった。しかし、この場所は柏戸が途中休場で大鵬は全休。喫した2敗が平幕相手でもあり、横審から昇進に“待った”がかかる。翌場所は10勝にとどまり、綱取りは振り出しに戻った。「長く(大関を)やっていると抜け出せない。早いとこパッパッといかないと」と、当時の玉の海は苦悩を語っている。
結局、大関に3年近くとどまった二人が、再び上昇気流に乗るのは、昭和44年後半からだ。名古屋場所で柏戸が引退して大鵬が一人横綱となり、一方で清國が新大関初優勝の快挙。同世代からの突き上げ、次代への責任感。玉の海は、一時悩まされた肝炎も徐々に回復し、北の富士は、入門前に北海道で世話になった恩人へ、綱を締めた姿を見せたいという思いも新たなモチベーションになった。ともに夏巡業で猛稽古に励んだことが実り、秋場所で玉の海が8場所ぶり、九州では北の富士が実に16場所ぶりの優勝を果たす。
そして、迎えた昭和45年初場所千秋楽、13勝でトップに立つ北の富士と、1差で追う玉の海が激突。本割では北の富士得意の左四つとなりながらも、得意の腹の上に乗せての吊りで玉の海が追いつき、決定戦では、北の富士が本割では取れなかった右上手をサッとつかむと、一気に攻め立てて右外掛け。ともに持ち味を十分に発揮した熱戦だった。連覇で横綱を確実にした北の富士の「できれば二人で上がりたい。シマちゃん(玉の海)は僕より苦労してきているから」との望みがかない、36年秋場所後の「柏鵬」以来、同時横綱昇進が実現した。
その後、大鵬が最後の壁として意地を見せるなか、二人は優勝回数を積み重ねていく。中でも玉の海の安定感は抜群で、横綱在位10場所で、勝率は・867。綱になかなか届かなかった鬱憤を晴らすかのような、または、その後の自分の運命を知るかのような、華々しい活躍だった。
「“双葉山の再来”と言われたように、彼は右四つの型を完成させた。だからこそ、ああいう安定した力を出せた。結局、相撲は足腰。彼のような相撲を取るには足腰がなければダメなんです。逆に私にはそれがなかったから、スピードで勝負するしかなかった。そそっかしいし、重厚さなんて望むべくもない(苦笑)。私は左が堅かったので、玉の海との対戦ではほとんど右四つになった覚えはないし、大半は得意の左四つか、私のモロ差し。それでも勝負は五分で、ごくまれに右四つになれば、上手投げでイヤというほど土俵にたたきつけられた。やっぱり、そう考えると、彼のほうが強かった、ということになるのかな」
「柏鵬」に代わって新たな時代を呼んだ「北玉」。だがその新時代は玉の海の急逝により、突如幕を閉じる。「その前の『柏鵬』が、あまりに偉大だった。『北玉』はどうしてもスケールが小さい。それに“時代”と呼ぶにはあまりにも短すぎた」。とはいえ、大鵬が引退した昭和46年夏場所から二人で成し遂げた、横綱による3場所連続全勝優勝は、他のライバル対決にはない激闘の痕だ。好敵手を失ったショックにさいなまれながらも立ち直り、計10度、賜盃を手にした北の富士。そして「輪湖」、貴ノ花らへ、新たな時代のバトンを渡した。
『名力士風雲録』第18号玉の海 北の富士 琴櫻掲載