「ほっとした気持ちで一杯です。本当に相撲が好きだなと、幸せ者だと思う。」
9月30日に引退した元横綱・白鵬の間垣親方は10月1日の記者会見で、20年間にわたる自分の相撲人生を振り返りそう述べた。
2001年春場所で初土俵を踏んで以来、07年夏場所に横綱に昇進。その後数々の歴代1位記録を残しながら、2021年7月場所千秋楽まで、実に幕内最高優勝45回を果たした。
今回のフォトギャラリーは、横綱白鵬と父の故ムンフバトさんの紙上対談(相撲2014年7月号掲載)を再編集してお届けします。(取材・文 ワンダン・ダワー ◎インタビュー写真 椛本結城)
2014年5月場所で29回目の優勝を遂げ、30回の大台、さらには歴代最多・大鵬の32回までも視野に入ってきた白鵬。この横綱が、レスリングでは5大会連続五輪に出場して、メキシコ五輪ではモンゴルに初のメダルをもたらし、モンゴル相撲(ブフ)でも日本で言えば大横綱にあたる国民的英雄のジクジトゥ・ムンフバトさんを父に持つことは、相撲ファンなら先刻ご承知だろう。
二人は父の日でもあった6月15日、そろって東京・代々木第二体育館を訪れ、レスリングを観戦。そのあとに親子でじっくりと語り合った。モンゴルの、そして日本の相撲で第一人者となった二人の、相撲への愛と、そして帝王学とは――。
2014年6月14日=都内 「父がいたから、“親子横綱”の夢が持て、それが実現できました。」 NikonD4s 70-200mm 1/250秒 f6.3 ISO400
黙ってレスリングをしたら「まだ早い」と
――きょうはご一緒にレスリングの試合を観戦されました。
ムンフバト(以下・父) レスリングの試合を一緒に見たことはないね。
白鵬 モンゴル相撲はあるんだけど。父は東京オリンピックにも出ていますからね。
父 そのとき試合したのは、駒沢の体育館でしたね。
白鵬 きょうは父の日でもありますし。やっぱりこの体に生んでくれた両親には感謝、感謝です。感謝というのはなかなか形にできないけど、きょうは少しできたのかな。
――お父さんは、モンゴルでは国の英雄なんですよね。
白鵬 メキシコオリンピックのレスリングで、モンゴル人として初めてのメダル、銀メダルを取っています。モンゴル相撲でも、年に1回の大きな大会で6回優勝していますし、約10年間にわたり、モンゴル相撲を引っ張ったすごい存在です。父の周りはいつも人だかり。それを見て私は育ちました。だから日本に来た時も「親子横綱だ」という夢が持てました。しかもそれをかなえられましたからね。
2014年6月14日=代々木第2体育館 「やめたほうがいいとも思っていたけど、気持ちがどれだけ人間を成長させるかが分かった」 NikonD4s 70-200mm 1/250秒 f6.3 ISO400
――白鵬関は、レスリングなりモンゴル相撲に進もうという考えはなかったのですか。
白鵬 父が銀なら、自分は金メダルを取りたいという夢はありました。12歳の頃かな、父に隠れてレスリング部に入ったんですよ。2週間ぐらい通って、いきなり大会で4位になり、父にばれたのですが、その時「お前はまだ早い」って言われたんですね。
父 子供のときにやると、1歳、2歳上の大きい相手に強く投げられたりしたらケガをする可能性があるし、精神的にも怖さが残ってしまう。だからそう言ったんです。
白鵬 これはやっぱり、レスリングで世界の舞台に立ち、またモンゴル相撲をやってきた横綱ならではの意見だよね。
父 体格と精神が一致したときには、モンゴル相撲をやってほしい気持ちはありましたよ。この子が体格的にも大きくなった時にモンゴル相撲が好きで、「やる」となったらね。
2014年6月14日=代々木体育館 この日ムンフバトさんと白鵬には、馳浩氏(右端)ら日本レスリング協会から記念品が贈られた。左端は元横綱朝青龍のドルゴレン・ダグワドルジ氏。 NikonD4 70-200mm 1/400秒 f5.6 ISO1600
もっと見てほしい入門当時の写真
――そんな白鵬関が、日本の相撲に進もうと思ったのは。
白鵬 初めて日本の相撲と出会ったのは6歳ですね。初代若乃花さんがモンゴルに来た時に会いました。その後、7、8歳の頃に、日本の相撲雑誌を見ました。千代の富士関(現九重親方)や隆の里関が載っていました。子供の頃は雪の上に円を描いて相撲を取ってましたし、興味はありましたね。その後、モンゴルでもテレビ中継が始まった。ハワイ勢、若貴の時代ですね。それから旭鷲山関が活躍し、さらに興味を持ちました。日本に行くときは「アマ相撲の方々が3、4回稽古してるのに参加するだけ」って聞いていたんですけど(笑)。学校も2カ月で帰ってくるつもりで休学して行きましたから。そしたら入門が決まって。
父 10月後半から日本に行って、12月に帰るか、帰らないかで電話があった。そのときは「自分で決めなさい」と言いました。息子の意志を尊重してそう言いましたが、本心では、当時は細くて小さかったですから、「まあいずれ、暖かくなったら帰ってくるだろう」という感じでいたんです。日本の相撲では私も手助けできませんから、正直言うと「やめた方がいいんじゃないか」という気持ちがありましたね。
白鵬 ホントにね、当時の62キロの写真を、もっと世の中に出して知ってもらいたいですよね。そうすれば、日本の子供たちも、「僕でも頑張れば横綱になれるんじゃないか」と勇気を持てるだろうしね。
2001年3月大阪場所=大阪府立体育館
――入門後、会われたのは。
白鵬 1年半か2年近く帰らなかったですね。それで帰ったときに、父に「もし道ですれ違ったら全然分からないな、お前」って言われました。それぐらい大きくなった。その後、2004年(平成16年)に関取に昇進して両親を日本に呼びました。母は初めて、父はオリンピック以来40年ぶりの日本でした。
父 当時は複雑な思いもありましたが、そのとき思ったのは、人の「好き」という気持ちが、どれだけ人間を成長させるのかということです。やはりハートなんですね。心から好きで、その場所に命を懸ければ、偉大な人物になれる。
白鵬 相撲が好きな人はたくさんいるだろうけど、相撲を愛してると言える人間は私だけだね(笑)。まあ、これは横綱になった今だから言えることかもしれないけど。関取に上がるまでの、血と、汗と、涙を流したあの3年間は「相撲を愛している」とは言えなかったかもしれない。でも当時は、本場所で勝つことが、唯一、自分の苦しみを和らげてくれましたね。やはり「好き」だから、こうなれた。例えばこれだけね、相撲の歴史について語る現役力士って私ぐらいでしょう? なぜ前の世代のお相撲さんたちが、双葉山関の名前を出さなかったのか、ちょっと不思議なんですよね。あれだけ素晴らしい哲学を持っているスーパースターがいたのにね。今、外国から来た、モンゴルから来た私が名前を出して、日本の人が双葉山関のことを分かってきた感じでもありますから。
――修業時代は、お父さんと電話はされていたんですか。
白鵬 来た頃は電話はやっぱり高かったんでね。公衆電話で、国際電話だから100円ずつ入れるんだけどすぐ終わってしまう。「元気だよ」と、声を聞かせるだけですよね。苦しいのを我慢していたけど、親に心配かけちゃいけないと思いますから。まあ手紙は書きましたけどね。
10月8日金曜日更新の後編に続きます。
※BBMフォトギャラリーは毎週金曜日更新予定です。