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2020-07-28

【アメフト】初の日本人NFL選手を目指す  K佐藤敏基(1) 甲子園ボウルで味わった挫折

北米の4大プロスポーツの中で、唯一日本人選手がいないのがアメリカンフットボールのNFLだ。オフシーズンのメンバーとして名を連ね、夏季キャンプやプレシーズンマッチまで進んだ選手は過去にもいたが、シーズン開幕後もロースターに名を連ねた選手はいない。

 そのNFLの牙城に迫っている日本人選手がいる。XリーグのIBMビッグブルーに所属するキッカー(K)佐藤敏基だ。

キックの練習をするIBMビッグブルーの佐藤敏基=ZOZOパーク ホンダフットボールエリアで、撮影:小座野容斉

初めて蹴ったキックで決めた52ヤード

 佐藤は1993年9月生まれの26歳。横浜市の出身で、幼少のころから中学生まではサッカー少年だった。アメリカンフットボールを始めたのは、早大高等学院に入ってから。体験入部で投げたボールに綺麗なスパイラルがかかったため、QBとなった。

「めちゃくちゃに下手なQBでしたね。練習では、必ず怒られていました」

 高校2年生の3月に練習試合で左ひざを負傷。1年下に笹木雄太(早大→オール三菱)がいたために、エースの座を譲った。高3の8月にはフットボールができるようになったが、焦りから練習でパスを多投し過ぎて今度は右肩を痛めてしまう。

 「高校の間はもうボール投げられないと医師に言われました」。

 それでも自分に何かできることはないかと、模索した。9月に入って、高校最後の大会が始まり、練習では最後までグラウンドに残るようにしていた佐藤の目に入ったのはキッカーの練習だった。幼稚園の頃からほぼ10年続けてきたサッカーでは、キック力に自信を持っていた。

 DB兼任だった正規キッカーが負傷して、キックができなくなった時、佐藤は「僕に蹴らせてください」と手を挙げた。

 早大学院のアメフト部では、FGの練習でキッカーの蹴る距離は自己申告制だった。佐藤が申告したのはゴールから35ヤードの地点だ。エンドゾーンの10ヤードと、スナップされる距離の7ヤードを足せば52ヤードだった。

 FGを始めて蹴った佐藤は、トップ級のキッカーでも入れるのが難しい距離を、あっさり決めた。高く長く飛んだボールはゴールポストを超えて、ビデオ撮影用のやぐらの上から2番目にぶち当たったという。日本の誇る長距離砲が誕生した瞬間だった。

技術の師、丸田さんとの出会い

 早稲田大学へ進学した佐藤は、キッカーとしてアメフット部へ入った。高校時代の最後の3カ月、キッカーとしてプレーしたが、技術面では教えてくれるコーチはおらず、我流だった。

 米国のNFLやNCAAでも、キッキングゲームのコーチは必ずどのチームにもいるが、たいていの場合、彼らが指導するのは、カバーチームの隊形や、キックをどこに蹴り込むかなどの戦術だ。正確に、高く、長く飛ぶようにボールを蹴るキックのメカニックを教えてくれるコーチは、決して多くはない。

 この点で佐藤は幸運だった。

 「キッカーの丸田喬仁さんが、東伏見の早稲田グラウンド近くに住んでいて、1年生の終わり頃から、時々指導してくれるようになりました」

 現在、「Japan Kicking Academy」という日本のキッカー・パンターを育成する団体の代表として活動する丸田さんは、当時Xリーグのオービック・シーガルズに加入すると同時に、NFLへの道を模索していた。丸田さんはライバル校法政大学のOBだが、上達したい、それを助けたいという気持ちは学校の垣根を超えた。
 
 立命館大学のと定期戦で知り合った、K佐伯眞太郎(現パナソニック・インパルス)にも教えを乞うた。1年次は1/5だったFGが2年次は3/4と徐々に向上していく。

 上を目指す気持ちは米国に向く。3年の春シーズンに、早大と提携関係にある、米カレッジきっての名門校、南カリフォルニア大学(USC)への派遣メンバーになることを希望した。しかし、USCにはキックの技術を教えるコーチがいなかった。佐藤はあきらめずに、6月に単身渡米、ウィスコンシン州で開かれたキッカーのキャンプに参加した。
 
 NCAAのディビジョン1クラスの大学のキッカーが集まり、将来はプロを目指すためのキャンプだった。集まったキッカーは体のサイズが佐藤とはまったく違っていた。彼らが練習で蹴っている距離も凄かったが、FGチャレンジが始まるとメンタルエラーを起こして失敗する選手が続出した。結局、佐藤はこのキャンプのコンペティションでトップタイの成績を残した。

 「初めてアメリカに行ってアメリカ人のキックを生で見ました。同じ人間なんだな、まったく手が届かないレベルではないなと感じました」

 それまでNFLへの挑戦は、まったく念頭になかった佐藤にとって、意識が変化する転機となった。

訪れた「最高の見せ場」で、ヒーローになれず

 米での経験は佐藤をKとしてグレードアップした。大学3年秋の関東学生リーグ戦、FGは9/9でパーフェクト。最長は日体大戦で決めた52ヤード。中央大戦では40ヤードを超える2本を含め3本を決めた。最終学年、佐藤は秋のリーグでは9/13だったが、52ヤードまでなら「いつでも決められる」自信があった。そして、その機会が最高の場面で訪れた。

 2015年12月の甲子園ボウル。佐藤が第4クオーターに33ヤードのFGを決めて、早大は立命大に27-28と1点差まで詰め寄った。試合時間残り1分余りのオフェンスで、QB政本悠紀(現IBM)のスクランブルなどで、ゴールまで35ヤードの地点に進んだ。残り時間3秒。佐藤のキックにすべてをかけることになった。52ヤードのFGトライだ。

 この時、甲子園ボウルの最長FG記録は、44ヤード。8ヤード以上も長い。しかし、佐藤は外すことは全く考えていなかった。

 「ポジティブに『来た来た!』と考えていました。サイドラインも、芝原さん(篤キッキングコーチ)が『お前の52ヤードや!決めてこい』と言ってくれるなど、明るく送り出してくれました」

 佐藤の蹴ったボールはまっすぐ飛んだが、距離がわずかに足らずバーの下を通過した。FG失敗。佐藤は前のめりに崩れるようにフィールドに倒れ込んだ。人生で最も大きな挫折だった。

 この経験があったから、佐藤はより高いステージを目指そうという気になった。もし、逆転のFGが決まって、甲子園で勝っていたら。普通にサラリーマンをしながら、フットボールを続けていた。NFLを目指そうとなどと思わなかったかもしれない。そう佐藤は振り返る。

2015年の甲子園ボウル【立命大vs早大】第4クオーター残り3秒、逆転をかけた52ヤードのフィールドゴールを狙う早大のK佐藤=2015年12月13日、撮影:佐藤誠

尾を引いた「甲子園の傷」

 とはいえ、甲子園ボウルの挫折は、K佐藤のメンタルにダメージを残していた。

 IBMに加入した佐藤は、FGの機会では早大の先輩でもあるK小田倉彦とプレーを折半し、主に長い距離のFGトライを担当する形となったが、大事な場面でしばしば外した。

 9月のアサヒビール・シルバースター戦で49ヤードを失敗。10月のアサヒ飲料チャレンジャーズ戦では48ヤードトライをチップされ失敗。この試合ではポイントアフタータッチダウン(PAT)も失敗した。シルバースター戦は7点差、チャレンジャーズ戦は6点差の勝利。佐藤のキックが決まっていればIBMはもう少し楽な展開となっていた。

 11月のプレーオフ初戦、LIXILディアーズ戦では52ヤードを大きく外し、失敗。準決勝の富士通フロンティアーズ戦では44ヤードをブロックされた。IBMは富士通に26-28で敗れ、シーズン終了となった。対照的に、富士通は、佐藤が『尊敬するキッカー』西村豪哲がFGトライ5本をすべて成功させた。最後は残り時間2秒から45ヤードの逆転FGを決めた。

2016年Xリーグプレーオフ準決勝【富士通vsIBM】44ヤードのフィールドゴールトライを富士通DBアディヤミと樋田にブロックされたIBMの佐藤=2016年11月27日、撮影:小座野容斉

 「IBMの1年目は、『甲子園』を引きずっていました。気持ちがかなりボロボロで、練習では決まっていても、いざ試合でフィールドに出ると不安がこみ上げる。『ゴールポストが狭い』と感じたこともありました」

 このシーズン、公式戦での佐藤の40ヤード以上のFGトライは、春の「パールボウル」決勝も含めると1/7。唯一決めたのは、9月のBULLS戦の40ヤードFGだ。実力差が格段にあり、大量得点のゲームでの1本だった。<続く>

【小座野容斉】

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