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2022-01-04

「第三者が入ったことで2人の関係は悪くなっていった」アントニオ猪木が語るジャイアント馬場<2>【週刊プロレス】

ジャイアント馬場とアントニオ猪木

 ジャイアント馬場とアントニオ猪木、両者が組んだBI砲はわずか4年余りの活躍だったにもかかわらず、史上最強のタッグチームとの評は今も揺るがない。一方で70年近くになる日本プロレス史において、彼ら以上のライバル関係はないともいわれている。では猪木は、入門当時から馬場をどのように意識していたのか。そしてその意識はどう変わっていったのだろうか…。
※週刊プロレス2009年2月11日号(No.1458)掲載

――馬場さんとは本当に同日入門だったんですか? 実は違うという話も聞きますが……。

猪木 難しいんだけど、馬場さんの方が早かったんじゃない? 力道山がブラジルに行く前に入門する話はできてたみたいだし。俺が日本に帰ってきた翌日、人形町の道場に行ったときにはもう馬場さんはいたから。

――その時に初めて会われたと?

猪木 インクラインベンチっていう斜めになってベンチプレスする器具があるでしょ、そこで練習してたね。ブラジルでは周りに俺よりデカイ人はいなくて、初めて俺よりデカイ人に会ったわけで。離れたところから「デカイ人がいるなぁ」と思って見てたんだけど、立ち上がったら見上げるぐらい大きくてびっくりしたね。そこに大木金太郎さんが来て、「あなたブラジル人、私、韓国人。仲良くやりましょう」って。

――馬場さんとはライバルといわれてますけど、当初から意識してましたか?

猪木 (ライバル意識は)ないですよ、最初は。俺はまだ17歳で、親元を離れてブラジルから来たガキですよ。大勢の兄弟の中で育ってきたからわかるんだけど、5歳違うと全然違いますよ。ただ、レスラーならライバル意識を持ってないのはおかしい。あいつには負けるかって。そういう気持ちはあったけど。

――日本プロレス時代から挑戦状を叩きつけたりしましたけど。

猪木 それはあとの話。俺の中ではもう勝負はついてましたから、練習の中で。ある程度たつと、業界のこととかわかってくるじゃない。馬場さんのデビュー戦の相手が田中米太郎で、俺の相手が若手の中で一番強かった大木金太郎だったと。その時はわからなかったけど、興行っていうのはこういうものなんだなって。

――その後、新日本と全日本に別れて、よりライバル意識が強まった感じですが、馬場さんに対する印象は?

猪木 非常に頭がよかったなぁって。戦略家っていうか、人をうまく使って自分を善玉に持っていくというか。逆に人生という中で見ると、俺はあまり苦労してないんだよね。稽古でしごかれたとかいうのはあるけど、ブラジルへ行ったといってもメシはちゃんと食えたし。でもあの人は、野球で挫折したっていうのがあったでしょ。その分、俺らより欲が深かったんじゃないかな? だからこそ慎重になったり。逆に俺は、会社が倒産して食うに困ったとか挫折したとかはないんだよ。勢いでここまできたというか。そういう意味では怖さを知らない。例えばバブルの時代を知っている連中は、はじけた時の経験もあるから慎重になってしまう。逆にバブルを知らない連中は、今の状況が当たり前だと思ってるから怖さを知らなくて突っ走っていくという、そういうところが、ああいう慎重な姿勢を生んだんじゃないかな。

――いわゆる冷戦時代にも馬場さんとは何度か会われてますが、その時はどんな感じだったんですか?

猪木 結局、相手のことはお互いが一番よく知ってるんですよ。周りの人が知らないだけで。例えば身近な人とか(苦笑)。そういう人が入ることによって、関係が悪くなったというか。坂口にしても同じで。

――別にギスギスした感じはなかったと?

猪木 2人の時はね。

(つづく)

橋爪哲也

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