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2021-12-30

「人間ってどこか死に場所を探して歩いてる」燃える闘魂の死生観…アントニオ猪木が語るジャイアント馬場<1>【週刊プロレス】

アントニオ猪木とジャイアント馬場

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 2022年で50周年を迎える新日本プロレス。旗揚げにはさまざまなアントニオ猪木の歴史が複雑に絡まっている。「力道山がブラジルでスカウトしなかったら」「馬場正平が同期で入門していなかったら」「東京プロレス崩壊後、日本プロレス復帰が許されなかったら」「日プロがNET(現テレビ朝日)との二局中継に踏み切ってなかったら」「猪木が日プロを追放されてなかったら」……このどれか1つでも欠けていたなら、現在の新日本プロレスはなかっただろう。

 その中でも猪木にとって大きいのがジャイアント馬場の存在。両者の関係はさまざまな形で伝えられているが、猪木自身の口から語られたのは断片的にすぎない。数々の事件を踏まえて綴られたBI物語。当事者たちはいったい、どのような関係だったのだろうか。今回再掲するのは、広島市内で没後10年の区切りに“燃える闘魂”が語った終生のライバル。
※週刊プロレス2009年2月11日号(No.1458)掲載

――猪木さんと広島で思い出すのは、スタン・ハンセン戦での逆ラリアット(1980年9・25=NWFヘビー級選手権試合)が印象的ですが、実はあまり相性のいい場所ではないんですよね。

猪木 アンドレにやられたのが広島だったかな?(1982年3・26「第5回MSGシリーズ」公式戦)。1分ちょっとで。あの時は暴動になってね。

――タイガー・ジェット・シンに敗れてNWFのベルトを奪われた(1975年3・13)のも広島ですし、「片手で3分」と“口撃”しながら30分ドローに終わった坂口さんとの初対決(1974年4・26「ワールド・リーグ戦」公式戦)も広島でした。

猪木 そんなこともあったかな。

――日本プロレス時代にさかのぼれば、大雪のため猪木さんが会場入りできず、馬場さんと保持していたインタータッグの初防衛戦が流れて王座返上になった(1968年1・8)のも広島でした。

猪木 県立体育館だったかな? あの頃はどこへ行っても満員で、広島、岡山、名古屋なんかはドル箱でね。ほかには福岡や大阪も。だからインタータッグ、アジアタッグ(のタイトル戦)がおこなわれる場所はだいたい決まってたね。

――その時のパートナーである馬場さんが亡くなって10年になります。

猪木 もうそんなになるの?

――猪木さんが最初に訃報を聞いたのはどこだったんですか?

猪木 ロスだね。その前にあるところから情報が入ってきてて。そんなに長くないなぁって。

――第一報を聞いた時の思いは?

猪木 人っていうのは死に方がすごく大事だなって。自分で言うのはおかしいかもしれないけど、オレは死というものに対して冷静で。それはじいさんの死、(アメリカ修行中に現地女性と結婚した間に生まれた)娘の死、というものに立ち会ったからかもしれないけど。人間ってどこか死に場所を探して歩いてるっていう部分がある。死によって終わりという人もいるけど、そうじゃない部分もあって。まぁ、そのへんは宗教的になるけど。馬場さんに関してはピークを過ぎたまま、あの後も(プロレスを)続けていたらどうなってたんだろ? 体つきとか、もう気の毒なぐらいで。それ自体、オレにはできないこと。最後なんか、一人じゃリングに上がることもできないぐらい。でも、そこに立ってなきゃいけないと。
(つづく)

橋爪哲也

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