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2022-01-23

荒波の船出に追い打ちをかけてきた日本プロレスの旗揚げ戦潰し…新日本プロレス歴史街道50年<1>【週刊プロレス】

1972年3月6日、新日本プロレス旗揚げ戦のアントニオ猪木vsカール・ゴッチ

 1972年3月の旗揚げ戦から50年を迎える新日本プロレスが1・4&5東京ドーム2連戦で記念イヤーのスタートを切った。全国津々浦々で名勝負を紡いできたとともに、数多くの事件も記憶に残っている。ここでは半世紀に及ぶ新日本プロレスの歴史を振り返る。ただ、年代別に並べてもありきたりになるので、会場や都道府県、王座、選手、シリーズなど違った角度から取り上げてみたい。第1回は旗揚げの地、東京・大田区体育館。
 
 1972年3月6日、新日本プロレスが東京・大田区体育館で旗揚げ戦を行った。「TV中継がなければ団体経営は成り立たない」といわれた時代。ノーTVに加え、日本人選手は猪木、山本小鉄、魁勝司(北沢幹之)、柴田勝久、木戸修、藤波辰巳(当時)のわずか6選手。豊登を急きょ担ぎ出して復帰させ、旗揚げ4戦目で浜田広秋(グラン浜田)をデビューさせたほど手薄。外国人ルートも太いパイプがあるわけではなく、カール・ゴッチに頼らざるを得ないほど。何よりも看板選手は猪木のみ。1年持たないといわれる中での船出だが、そこに追い打ちをかけてきたのが古巣の日本プロレスだった。

 大田区体育館の初使用は力道山死後の日本プロレスで1965年1月16日。メインは豊登&ジャイアント馬場組vsイワン・カメロフ&ソルダット・ゴーキーのアジアタッグ選手権試合。日本組が2-0のストレート勝ちを記録している。その後も国際プロレス、東京プロレス、全日本女子プロレスが使用、都内の定番会場となっていった。

 新日プロの旗揚げは月曜日。NETがアントニオ猪木を主役に日プロのTV放映を行っていた「ワールドプロレスリング」の中継曜日でもある。記録から紐解けば、日プロの横浜大会が生中継されていたことになる。ちなみにメインは坂口征二、大木金太郎組vsハーリー・レイス、フランシスコ・フローレス組、セミファイナルはジャイアント馬場vsコルシカ・ジョー。

 日プロ時代では蔵前国技館(日プロ)と日大講堂(国際プロレス)の隅田川を挟んだ興行戦争(1968年1月3日)が有名だが、大田区と横浜もそれほど離れていない。日プロが新日本の旗揚にぶつけてきたことは十分に考えられる。

 それだけではない。日プロは旗揚げの6日前に大田区体育館大会を開催興行している。メインはジャイアント馬場vsブルドック・ブラワーのインターナショナル選手権試合。挑戦者は超一流とはいいがたいが、その日は火曜日なので生中継ではないにもかかわらず、看板タイトルを懸けた一戦をぶつけてきたのは“新日本潰し”の思惑があったのは明らかだ。

 記念すべき旗揚げ戦を終えた新日プロは、その後も年1回のペースで大田区体育館大会を開催してきた。しかし特にタイトルマッチが組まれることも、スペシャルマッチが組まれることはなく、シリーズ中の1大会にすぎなかった。“旗揚げ記念”を掲げたのはちょうど10周年となる1982年のことである。
(つづく) 

※大田区体育館……1965年4月、1964年に開催された東京オリンピックを記念して建設された。しかし老朽化に伴って、2008年3月31日にて閉鎖・取り壊し。同じ場所に大田区総合体育館が建設され、2012年3月に竣工している。

橋爪哲也

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