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2022-02-03

日本マット初の釘板デスマッチも! アントニオ猪木の新春黄金シリーズ…新日本プロレス歴史街道50年<7>【週刊プロレス】

アントニオ猪木vs上田馬之助

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 坂口征二とともに歩み、ジュニア戦士が主役の活躍を見せるようになっていった「新春黄金シリーズ」。では、アントニオ猪木にとってはどのようなシリーズだったのか? 1986年、1987年は「ニューイヤーダッシュ」として開催されたが、1990年まで続いたというから、猪木が参院選に初当選した翌年まで続いたことになる。その意味では、猪木が新日本プロレスの絶対エースだった時代とオーバーラップする。各年度に来日した外国人エースの顔触れから振り返ってみた。
     
 アントニオ猪木が絶対エースだった時期の新春シリーズに参戦した各年の外国人エースは以下の通り。

 1974年=ジョン・トロス、1975年=ブルート・バーナード、1976年~1978年=タイガー・ジェット・シン、1979年=ボブ・ループ、1980年=スタン・ハンセン、1981年=タイガー・ジェット・シン、1982年=アブドーラ・ザ・ブッチャー、1983年=ブラックジャック・マリガン、1984年=ハルク・ホーガン、1985年=キングコング・バンディ、1986年=なし、1987年=クラッシャー・バンバン・ビガロ(特別参加)、1988年~1990年=ビッグバン・ベイダー。

 旗揚げ間もない74年、75年は外国人ルートの苦しさがうかがえる。74年のジョン・トロスは、日本プロレス時代の71年3月に猪木がロスでUN王座を奪った相手。トロスからすれば3年越しのリベンジを期しての来日だったが、焼き直し感は否めず。猪木が前年暮れにジョニー・パワーズから奪ったNWFヘビー級王座への挑戦は許されず、返り討ちにされている。

 翌75年はブルート・バーナードがエース外国人として来日したが、シリーズで人気を集めたのはマクガイヤー(ビリー&ベニー)兄弟。連日、ハンディキャップマッチで中堅・若手を圧殺。2月4日、大田区体育館での最終戦で猪木が逆に1対2のハンディキャップ戦で勝利。バーナードとのタイトルマッチは組まれなかった。

 ただ、この2年はトニー・チャールズやピート・ロバーツ、スティーブ・ライト、コーリン・ジョンソンといったヨーロッパ系の選手がワキを固めていた。むしろ猪木が本領を発揮したのは、テクニックで勝負していた彼ら相手だった。

 76年から3年間はシンとの遺恨マッチが中心。76年はシリーズ直後にウイリエム・ルスカとの格闘技世界一決定戦が控えていたのでタイトル戦は控えた。しかし、大阪府立体育会館(1月29日)でのシングル対決で負傷させられ、不安を抱えてルスカ戦に臨まなければならなかった。

 76年はパートナー不在だったが、翌77年は上田馬之助を帯同。さらにスタン・ハンセンも同シリーズで新日プロ初参戦を果たしている。のちのハンセンの活躍を考えると息を抜けないシリーズとなるが、シンとハンセンは完全に手を組んでいたわけではなかった。

 シンとはシリーズ最終戦(2月10日、日本武道館)でNWF王座を懸けて闘ったが、リングサイドにフェンスを組んで上田の乱入を阻止しての一騎打ち。レフェリーストップで勝利したことで、シンとの因縁は決着したかに思われた。

 一方、ハンセンとはこのシリーズで5度のシングル対決を行っている。それも開幕戦、福岡、大阪、横浜といった地方の大会場やTVマッチで。いずれハンセンが強力なライバルになると予感していたかのようなマッチメークだ。

 1978年もシンが3年連続でシリーズの主役に。この年も上田がピッタリと寄り添っていたが、WWWF世界ヘビー級王者のスーパースター・ビリー・グラハムが終盤に特別参加。タッグの名手であるハリウッド・ブロンドス(バディ・ロバーツ&ジェリー・ブラウン)、マクガイヤー兄弟、バファロー・アレン(のちのバッドニュース・アレン)がシリーズ全戦に参加しており、旗揚げから10年間で最も外国人層が厚い「新春黄金シリーズ」だった。ただ同シリーズではシンよりも上田との遺恨が深まり、2月8日の蔵前国技館で日本マット初の釘板デスマッチをおこなっている。

 77年、新日マットにしたハンセンは、同年9月にも再来日。そこで猪木の持つNWF王座に初挑戦を果たしたが、80年の「新春黄金シリーズ」で2度目の挑戦。リングアウトながら猪木を破り、シンに続いて至宝強奪に成功した。
(つづく)

橋爪哲也

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