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2022-02-08

アントニオ猪木とNWFヘビー級王座を懸けて最も多く闘った外国人選手は…新日本プロレス歴史街道50年<9>【週刊プロレス】

NWFヘビー級王者のアントニオ猪木

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 新日本プロレスの至宝といえばIWGP王座。現在はインターコンチネンタル王座と統一されて「世界」が冠されているが、その前身であるIWGPヘビー級王座は73代、32人のレスラーがベルトの歴史を紡いできた。

 1987年6月、同王座がタイトル化されるまでの新日本の代名詞ともいうべき王座はNWFヘビー級だった。1973年12月、東京体育館でジョニー・パワーズを破って新日マットに定着させ、1981年4月、世界統一を掲げるIWGPの理念の下、封印された。2003年から約1年間復活して高山善廣が保持していた時期もあったが、ここではアントニオ猪木時代、新日本の管理下に置かれた約7年半のNWF王座の歴史を記録から振り返ってみる。

 NWFヘビー級をめぐるタイトルマッチといえば、ストロング小林との“昭和の巌流島”(1974年3月19日)、大木金太郎との因縁マッチ(同年10月10日)、ビル・ロビンソンとの60分フルタイム(1975年12月11日)、腕折りに代表されるタイガー・ジェット・シンとの遺恨対決、スタン・ハンセンへの逆ラリアット(1980年9月25日)など、数々の名勝負が思い浮かぶ。ほかにも、クリス・マルコフ相手のワールドリーグ戦リバイバル(78年11月1日)、仮想NWA世界ヘビー級戦となるジャック・ブリスコ戦(1979年5月10日)やダスティ・ローデス戦(同年11月1日)もアントニオ猪木のプロレス人生において意味のある闘いだった。

 ジョニー・パワーズから奪取して封印されるまで44試合がおこなわれたが、同王座を懸けて最も多く闘ったのは、やはり宿命のライバルともいうべきシン。実に14度も激突している。それもカナダ(モントリオール)、アメリカ(ロサンゼルス)、メキシコ(エル・トレオ)と日本だけにとどまらない。ノンタイトル戦も加えればパキスタンでも闘っているし、ランバージャックマッチ、体にオイルを塗って闘うインディアンデスマッチ、乱入を阻止すべくリングサイドにフェンスを設けて闘うなど、多彩な闘い模様を描いてきた。

 次に多いのがハンセン。9度のうち80年以降が7回と集中している。またハンセンとはカナダ・カルガリーでも激突(1979年8月17日、現地時間)。ここから一気に猪木のライバルにのし上がっていった。

 2度以上対戦しているのは、ベルトを奪った相手であるジョニー・パワーズ(3度)をはじめ、S・小林、アンドレ・ザ・ジャイアント、アーニー・ラッド、ケン・パテラ(各2度)。やはりシンとハンセンが突出している。

 会場別で見ると、最も多いのが蔵前国技館の16回。同じく都内の東京体育館、日本武道館がそれぞれ3回だけに“新日本の都内ビッグマッチは国技館”の印象が強いのはこのあたりが要因だ。

 続いて大阪府立体育会館の5回。札幌中島体育センター、愛知県体育館の3回と続く。ほかには広島県立体育館、福岡スポーツセンター、品川プリンスホテルゴールドホールがそれぞれ2回。川崎市体育館と鹿児島県立体育館が各1回となっている。

 海外に目を向けると、MSG(マディソン・スクエア・ガーデン)で4度。ニューヨークではほかにメッツの本拠地だったシャイスタジアムでも1度防衛戦をおこなっている。ほかにアメリカでは前述したロスに加えて、クリーブランド(オハイオ州)、アレンタウン(ニューヨーク州)にて。さらに、カナダ(前述のモントリオール、カルガリー)、メキシコ(メキシコシティ)、ブラジル(サンパウロ)、韓国(ソウル)でも各1度、防衛戦をおこなっている。

 国内では8都市でのみおこなわれなかったNWFヘビー級タイトルマッチ。しかも名古屋と鹿児島を除けば、いずれも手打ち興行。試合内容もだが、厳選された会場のみでしか開催しなかったからこそ“至宝”と呼ぶにふさわしい権威が築き上げらていったのだろう。

(この項おわり)

橋爪哲也

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