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2022-03-28

三沢光晴さんと病院での別れに「28年間、楽しい思い出ばかりがめぐりました」“業界歴40年の大ベテラン”福田明彦レフェリー物語<後編>【週刊プロレス】

三沢光晴さんの右腕を上げる福田明彦レフェリー

 1982年夏より全日本プロレスでリングスタッフとして働き始めた福田明彦レフェリー。リング作りと売店の売り子、現在で言うと音響の仕事をこなす中で大きな転機が訪れた。

 長州力らジャパンプロレス勢が離脱した直後の1987年3月31日。それまで全日本プロレスはレフェリー3人体制だったのだが、タイガー服部が抜けてしまい、ジョー樋口、和田京平だけになった。そんな中、ジャイアント馬場さんからレフェリーをやってみないかと打診されたのである。

「当時、新日本プロレスと全日本プロレスしか大きな団体がなくて、ジョーさん、京平さん、服部さん、ミスター高橋さんぐらいしかプロレスのレフェリーがいないわけじゃないですか。そんなの自分にできるわけないと思って、一旦は断りましたよ。でも、京平さんから『やってみろ』と言われて、覚悟を決めてやることに決めました」

 現在では考えられないが、打診からリングに上がるまですべて一日の出来事。こうして福田さんは富山・魚津大会で初めてレフェリングをすることに。プロレスをずっと見てきて、リングスタッフとして業界歴もあるので、レフェリングの知識はあった。

 当日にやってみろと言われて、いきなり実戦デビューだったが、意外にも緊張をせずに試合を裁くことができたという。もっとも、時間切れの引き分けに終わったので、逆に言えば3カウントを叩かずに済んだのだが…。

 実際にやってみたレフェリーという仕事は「難しいことだらけ」だった。福田さんは開場前には若手の模擬試合を裁いて経験を積んだり、樋口、和田の両先輩にアドバイスをもらったりしながら、練習を積んでいく。同時にオフには道場に通って、基礎体力を培っていった。

 以後、現在に至るまで全日本プロレス、NOAHの試合を裁いてきた。モットーとしているのは「カウントとかお客さんにも聞こえるように大きな声を出して言うこと、選手やカメラマンさんの邪魔にならないようにすることですね」。だが、その四半世紀以上のレフェリー人生は負傷なくして語れない。

 1989年10・11横浜文体大会では世界ジュニア次期挑戦者決定リーグ戦の最中に渕正信のコブラツイストを解かれた仲野信市が左足に降ってきた。その衝撃でジン帯を負傷してしまい、何とかその一戦だけは裁き切ったが、1カ月近くも休むことになった。渕vs菊地毅戦では両者がグラウンドの攻防を繰り広げている際にリングシューズのカカトが当たって、左目まぶたから流血。NOAHでもベイダーに乗っかられ、右足に大きなアザができたこともある。

 それらは一時的なケガで済んだが、現在でも残る重傷を負ってしまう。本田多聞のデッドエンドを踏ん張る池田大輔にしがみ付かれ、そのまま眉山(トリプル式ジャーマン・スープレックス)のように投げられたのだが、キャンバスに首を強打し、いまだに後遺症が残っているそうだ。

 2008年9・6武道館大会、王者・森嶋猛に佐々木健介が挑戦したGHCヘビー級選手権でのことだ。福田さんは2日前のリング設営作業中に左手の薬指を負傷。翌日、病院で検査したところ、亀裂骨折していることが判明。ちょうど西永秀一レフェリーが欠場中だったので代わりがいなかった。

 幸いにも負傷はカウントを叩く右手ではなく左手。福田さんはケガのことをあまり人には言わずに武道館のメインイベントを裁いた。プロレスラー顔負けのプロ根性だ。

 それでもレフェリーという仕事を続けることができたのは、リングが持つ不思議な魅力にほかならない。それを言葉で説明するのは難しいが「たぶん選手たちと同じ。病みつきになってるんですよね。これも選手と同じなんですけど、自分のレフェリーの出番なのに、まだ着替えが終わってない夢とか何十回も見ましたよ」とニッコリ。

 そんな40年の業界生活の中で忘れられない日がある。2009年6月13日、広島大会。全日本プロレス時代からずっと同じ団体で全国各地を巡業してきた三沢さんが試合中のアクシデントで亡くなった日だ。

 福田さんはNOAH旗揚げ後、三沢さんの社長秘書を8年間担当。広島大会のメインで倒れた三沢さんが病院に運ばれた後、リング撤去をしながら無事を祈っていたが、途中で死亡が確認されたことを伝え聞いて、ショックを受けると同時にやるせない気持ちになった。

 リング撤去を終えた福田さんは一旦、病院へ行った後、宿泊先のホテルへ戻り、全体ミーティングに参加。翌日の博多大会を決行することが決まった後、病院側から誰か三沢さんに付き添ってくれないかと依頼され、再び病院へ向かい、三沢さんが眠る集中治療室でともに一晩を明かし「28年間、楽しい思い出ばかりがめぐりました」という。そして、朝一番で東京から駆け付けた三沢夫人らと入れ替わるようにホテルに戻り、博多へと移動し、大会成功に尽力したのだった。

 それからも福田さんはレフェリングに加え、選手バスの運転手、グッズ売店、リングスタッフなど裏方に欠かせない重要な役割を担いながら、巡業に帯同。オフの間も事務所でさまざまな業務に追われ、NOAHのために力を尽くしてきた。

 そんな日本プロレス界の生き字引である福田さんが、2022年4月3日、NOAH高崎・Gメッセ群馬大会にてレフェリー業務を引退する。引き続き、選手バスの運転やリング設営などスタッフの一員としてNOAHの大会&巡業に携わっていくが、レフェリングは見納め。最後のリング、その目に焼きつけろ!

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