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2022-03-27

「リングアナのマイクを借りて、本部席のラジカセに当てて、会場にテーマ曲を流すんです」“業界歴40年の大ベテラン”福田明彦レフェリー物語<前編>【週刊プロレス】

スタン・ハンセンの試合を裁く福田明彦レフェリー

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 4月3日のNOAH高崎大会でレフェリーを引退する福田明彦レフェリーは全日本プロレス、NOAHと日本プロレス界保守本流の現場を長年支えてきた。業界歴は実に40年。レフェリーとしては35年間、常に年間100大会以上を裁いてきた。そんな福田レフェリーが人生を懸けてきたプロレス歴を前編&後編で振り返る。

 福田明彦さんは小学生の頃から父親の影響でプロレスが好きになり、主に全日本プロレスをよく見ていた。特に興味を引かれたのが外国人選手。1977年12月におこなわれたオープンタッグ選手権最終戦のファンクスvsザ・シーク&アブドーラ・ザ・ブッチャーを祖父の家のテレビで見て、強い衝撃を受けた。81年8月21日には埼玉・浦和競馬場正門前駐車場における三沢光晴のデビュー戦を生観戦しているというのも、今振り返ってみれば運命的である。

 高校時代から和田京平レフェリーや仲田龍リングアナウンサーらを中心とした全日本プロレスのリングスタッフとして手伝い始めていたというから、業界歴は40年。当時からとにかくプロレス関連の仕事に就こうと考えていたので就職活動の類は一切していない。

 とはいえ、群馬県前橋市に住んでいては都内に出るにもひと苦労だったので、高校卒業後はひとまず上京しようと写真関連の専門学校に入学。その進路を選んだ理由も、もしもリングスタッフとして働くことができなくても、カメラマンとしてプロレスに携わろうとしたからだ。

 結局、福田さんは約4カ月で専門学校に行かなくなり、アルバイトの身分ながらリングスタッフとして巡業に全戦帯同。82年の夏のことだった。83年1月には欠員が出たので、正式に全日本プロレスに入社。あこがれだったプロレス業界入りを果たし、リング作りと売店の売り子として“王道”の一員となった。時期的にちょうど川田利明の後に全日本プロレス入りしたことになる。

 そうした日々の中で次に与えられた仕事は、現在で言うと音響である。テレビ中継のある大会場は日本テレビのスタッフがやってくれたのだが、それ以外では自分たちでやるしかなかった。放送室がある会場ならば、その設備を使えばいい。問題はマイク一本だけ場内のスピーカーにつながっているようなアナログな体育館だ。

「リングアナのマイクを借りて、本部席のラジカセに当てて、会場にテーマ曲を流すんです。マイクは一本しかないから選手が入場したら、すぐ音を絞ってリング上にいるリングアナにマイクを渡さなきゃいけない。

 でも、スタン・ハンセンのテーマ曲って1分あるかないかぐらい短いんです。とある会場では3回目でやっと出てきたこともありました。もちろん当時はカセットテープですから、終わったら巻き戻さなきゃいけない。ずっと早く出てきてくれと心の中で思ってました(笑)」
(後編へつづく)

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