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2022-04-18

オイルマッチでアントニオ猪木とタイガー・ジェット・シンがヌルヌルの攻防…新日本プロレス歴史街道50年(39)【週刊プロレス】

タイガー・ジェット・シンをスリーパーで絞めるアントニオ猪木

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 ランバージャックをはじめ1対3、巌流島、ノーロープ円形などさまざまな変則ルールでも闘ってきたアントニオ猪木だが、自身が提唱するストロングスタイルから外れるリングには上がらなかった。格闘技戦ではルールで紛糾することもあったが、結果的に手かせ足かせとなったモハメド・アリ戦を除いて、相手の競技に大きく傾くルールでの闘いはなかった。そんななか唯一、相手が提唱するルールに飛び込んだのが、エンドレスで抗争が続いていたタイガー・ジェット・シンとの闘いだった。

 1973年5月に勃発したタイガー・ジェット・シンとの抗争。NWFヘビー級王座をめぐっての闘いはもちろん、日本初のランバージャックデスマッチをはじめ、腕折り事件などに代表されるように、両者の遺恨は深まるばかり。1979年の「ブラディファイト・シリーズ」では最終戦でタイトルマッチが決まっているにもかかわらず、シリーズ中にノンタイトル戦で5度のシングルマッチを闘っている。

 直前には2度のタイトルマッチに加え、「夢のオールスター戦」(同年8月26日、日本武道館)で復活BI砲とメインで激突。猪木から直接フォール負けを喫しており、それもシンが怒りをさらに燃え上がらせえる要因にもつながっている。ここでシンが提案したのがインディアンオイルデスマッチだった。

 少年時代、シンはインドでレスリングをしていたが、「マットの上ではなく砂の上、時には泥の中で闘っていた」と語っている。さすがに蔵前国技館に“泥のリング”を設営するのは難しいとあって、全身にオイルを塗って闘う形式を突きつけたわけだ。

 そして迎えたシリーズ最終戦(同年10月4日)。猪木にとっては初の試合形式。反則なし、リングアウトなし、3カウントフォールのあとダウンしたままで10カウントが数えられて勝敗が決まるルール。

 両者がガウン、コスチュームを脱いだところで上半身にオイルが塗られ、試合開始のゴングが鳴らされた。滑るので相手をつかむことができずラフな展開になるかと思いきや、意外にもグラウンドでの攻防が中心に。さすがに関節を決めるのは難しく、猪木がスリーパー、シンが足4の字を中心に組み立て、互いに相手のスタミナを奪う展開になっていった。

 誤算だったのは、中継用のTVライトで照らされリング上は40度以上となったこと。オイルが乾いてしまうほど高温。また時間の経過とともに汗がオイルを洗い流し、グラウンドの展開でキャンバスがオイルを拭き取ってしまった。動きが止まったところでレフェリーがオイルを垂らすシーンもあったが、次第に通常のシングルマッチとさほど変わらぬ展開に。最後は猪木がラフに出たところでシンが凶器を持ち出して一撃。さらにレフェリーまで凶器攻撃を見舞ったのを機に両軍のセコンドが乱入して収拾不可能。結果、ノーコンテストが宣せられた。

 その後、両者はUWA世界ヘビー級王座をめぐっての闘いにシフトチェンジしていった。
(この項おわり)

橋爪哲也

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