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2022-04-15

わずか2度しかおこなわれなかった昭和の代表的なデスマッチ…新日本プロレス歴史街道50年(38)【週刊プロレス】

高山善廣にスリーパーを仕掛ける蝶野正洋

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 昭和のプロレスにおいてもっともオーソドックスなデスマッチは金網だった。このルールで無敗だったラッシャー木村は“金網の鬼”の異名で呼ばれたが、国際プロレス崩壊後にはぐれ国際軍として乗り込んでアントニオ猪木との抗争を繰り広げた際、“燃える闘魂”は金網の中に引きずり込むには至らなかった。結局、新日本プロレスが初めて金網マッチをおこなったのは猪木引退後の2003年8月28日。場所は、猪木が数々の因縁マッチを闘った大阪府立体育会館だった。

 はぐれ国際軍団とエンドレスの抗争を繰り広げていた1981年暮れから1983年にかけて、アントニオ猪木とラッシャー木村の金網デスマッチが実現していてもなんら不思議ではなかった。国際ファンからすれば、ストロングスタイルのリングで“金網の鬼”の本領を存分に発揮してもらいたいとの思いは強かったはず。

 しかし、実現せず。ただこれは、相手が得意とするリングに上がらないという猪木の戦略が理由ではなく、「(観客に)表情が見えない」が一番の理由だった。

 新日本プロレスで初めてリングが金網で囲まれたのは21世紀になった2003年。復活したNWFヘビー級王座を獲得した高山善廣は、永田裕志とのダブルタイトル戦をも制してIWGPヘビー級との2冠王に君臨。その後も高山は、それぞれのベルトを並行して防衛するなど猛威を振るっていた。

 新日本にとっては“ストップ・ザ・帝王”が大きなテーマとなるなか、同年7月21日、月寒グリーンドームで蝶野正洋が挑戦。しかし両者KOで王座奪回はならなかった。そこで「G1クライマックス」を挟んだ同年8月28日、大阪府立体育会館で再戦が組まれたが、ここで逃げ場のないリングで完全決着をつけるべく採用されたのが金網デスマッチだった。

 新日本が採用したのは、エプロンに密着して金網を組むのではなく、場外マットの外側まで囲う形。試合直前に組み立てるのではなく、旧大阪府立で大相撲の大屋根が常時吊るされいたように、開場前に組み立ててリング上に吊るされていた。また、前述した猪木の意見を取り入れたのか、金網の目も粗いものだった。

 さらに“二番煎じ”を嫌ってか、「お互いのプライドがルール」とし、リング上はレフェリー不在。坂口征二会長が立会人を務めて試合をストップする権利を有するという“巌流島決戦”の要素も加味された。結果は高山がスリーパーにとらえたところで坂口会長が試合を止めた。

 2度目の金網マッチはそこから約半年後の2004年3月28日。当日は両国国技館大会が開催されていたが、金網が組まれたのは都内某スタジオ内。金網に入ったのは棚橋弘至と村上和成。棚橋が保持するU-30無差別級王座を懸けての一戦だった。

 U-30は棚橋が提唱して、トップへのステップとして設立された王座。いうなれば三冠ヘビー級王座がまだ分けられていたころの全日本プロレスにおけるUN王座的なポジション。資格は30歳以下。10選手によるリーグ戦を制した棚橋が2003年4月23日、広島サンプラザで初代王座に就いた。迎えた8度目の防衛戦の相手が星野勘太郎が総裁として率いていた魔界倶楽部の一員である村上。立会人は山本小鉄。両国国技館のビジョンで流されるなか、無観客でおこなわれた。

 反則OKとあって、村上は序盤からケンカファイト全開。防戦一方の棚橋だったが、ドラゴン・スープレックスを連発して逆襲。なんとか勝利をつかんだが、歓声のない闘いにペースをつかみきれなかった。昨年、コロナ禍での無観客試合を経験しているが、それも踏まえて「あの時は不思議な感覚でしたね。当たり前なんですけど、なにをやっても反応がない。声援があると不思議な力がわいてくるんです。それを感じましたね」。

 徐々に制限は解除されつつあるが、まだ声を出しての応援は規制されている。「今は手拍子での応援になってますけど、どんなに大きく拍手されてもそれがどっちの選手に向けてのものなのか、どういう意味なのか、瞬時に判断するのは難しいですね。やっぱり声援がないと。最近、僕が低迷してるのは声援がないから。早く声を出して応援できるようになってほしいですね」と苦笑していた。
(つづく)

橋爪哲也

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