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2022-04-15

【連載 名力士ライバル列伝】東富士―羽黒山

怒濤の寄りが売り物で、誰からも愛された東富士

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戦後の日本中が疲弊し、食うものもやっと、という時代、
大相撲人気も大きく低迷。
栃錦、若乃花、「栃若」の台頭で人気が上向くまで、
歯を食いしばって土俵を守り、盛り上げた横綱たちがいた。
初の江戸っ子横綱の東富士、
豪快な突っ張りで相手を圧倒した千代の山、
69連勝の双葉山が育てた鏡里、美男横綱の吉葉山。
戦後の復活は、彼らの活躍を抜きにしては語れない。

「雪国育ち」対「東京ッ子」

優勝回数は羽黒山が7回、東富士が6回。戦後、昭和20年代の土俵の中心となったのは立浪勢の総帥と、高砂勢の総帥の両横綱であったことに異論はないだろう。他の横綱が入れ替わる中で、二人は長く「4横綱時代」を生き続け、対戦成績は東富士の7勝8敗と拮抗。横綱昇進後に限れば5勝4敗と、東富士が1点勝ち越している。年齢は羽黒山が8つ上だが、ともに大横綱双葉山の胸を借りて成長したことも共通点といえる。

東富士(当時東冨士)の新入幕時は同軍で戦ってきたため(当時は東西制)、初対戦は方屋の替わった昭和19(1944)年秋場所9日目。6日目に双葉山を上手投げで破り、“恩返し”した3日後のことだった。優勝の行方を占う1敗同士の激突は、左四つに組んだ東富士が、羽黒山の寄りを下手捻りでこらえ、両廻しを引きつけて反撃し最後は寄り倒した。結局9勝1敗。賜盃は番付上位の大関前田山に譲ったものの、双葉山と羽黒山という相手方のトップ二人を破る大活躍である。

昭和20年夏場所も羽黒山を破り、戦後は「東富士時代到来」と誰もが思っただろう。しかし、覇者となったのは羽黒山だった。同年秋場所8日目、24歳の新大関と、31歳のベテランの全勝対決は、がっぷり左四つの攻防の末、羽黒山が打っ棄って勝利し、そのまま優勝。22年夏場所も、9日目に全勝の東富士に土を付けた羽黒山が、9勝1敗の4力士による優勝決定戦を制した。そして翌秋場所には4連覇を達成。その間、巨体を支える足首を痛めたこともあり4連敗の東富士は、初優勝も横綱の地位も遠のいていた。

だが、羽黒山のアキレス腱断裂による離脱中に、初優勝も新横綱優勝も手にした東富士は、ここから逆襲に転じた。特に「(東富士が)ウチの連合稽古に来たとき、前に横綱を目指していたときと同じような稽古ぶりなので、今場所は働くなと感じていた」と恩人の時津風親方(元横綱双葉山)が評した昭和25年夏場所。1敗の東富士と1差で追う羽黒山の千秋楽直接対決となり、左四つがっぷりの大熱戦となったが、最後、懸命に力を振り絞った東富士が、羽黒山の胸を突いて寄り切った。

同じ左四つながら隠忍自重、右前ミツを取ってからじっくり攻め立てる羽黒山に対し、右上手を取っての出足早の怒濤の寄りが持ち味だった東富士。「雪国育ちで我慢強い羽黒山」「勝負に対してムラのある東京ッ子の東富士」などと比較されて語られることも多かったが、この先輩横綱を破った一番は、まさに一時代を築くと言われた東富士らしい実力、そして粘りを存分に発揮した相撲であろう。

対戦成績=東富士7勝―8勝羽黒山

『名力士風雲録』第26号 東富士 千代の山 鏡里 吉葉山 掲載

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