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2022-06-03

ジャイアント馬場が独立宣言「日本テレビのブラウン管に出るべく、日本プロレスを離れる」【週刊プロレス昔話】

会見をおこなったジャイアント馬場

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1972年7月29日、東京・赤坂プリンスホテル有明の間でジャイアント馬場が会見をおこない、日本プロレスを離れ、フリーとなることを宣言した。

今年は新日本、全日本の50周年イヤーだが、馬場はこの時に“近い将来の新団体旗揚げ構想”をアナウンス。周知の通り、ここから同年10月の全日本プロレス旗揚げへとつながっていく。

当時は「サマー・ビッグ・シリーズ」真っ最中。突然の発表に記者団にも「信じられない…」といった空気が流れ、その頃、代官山の日本プロレス事務所では芳の里、吉村道明、大木金太郎、坂口征二、グレート小鹿らが呆然自失となっていた。

馬場独立の理由は2点。1つは日本のプロレスと切っても切れない深い関係がある日本テレビと離れてプロレスをやるのは釈然としないということ。もう1つは現在の日本プロレスに所属していたのでは自分の理想としているプロレスを実行することができないので、自由な立場で可能性を追求したいということ。当時の日本プロレスは日本テレビとNETテレビ(テレビ朝日)で放送されており、馬場はNETテレビで放送される試合への出場に不満を持っていたと言われ「日本テレビのブラウン管に出るべく、日本プロレスを離れる」と決意した。

馬場の新団体には付き人をやってきた轡田友継(サムソン・クツワダ)、佐藤昭夫の参加は濃厚。子飼いの弟子ということでアメリカ・テキサス州アマリロで修行中の駒厚秀(マシオ駒)、大熊元司、馬場派で休業中の百田光雄も馳せ参じることが予想された。

すでに新日本プロレスは同年3月に旗揚げ。アントニオ猪木に続き馬場の離脱は、日本のプロレス界を大きく動かし、日本プロレスが崩壊へと向かう序曲だった。

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