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2022-12-06

【連載 泣き笑いどすこい劇場】第13回「相撲界人情話(下)」その1

摺鉢山を臨む鎮魂の碑に向かって横綱土俵入りする曙。太刀持ち・剣晃、露払い・鬼雷砲

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平成23年秋場所後、大関に昇進した琴奨菊(現秀ノ山親方)の口上には、小さい頃、相撲を教えてくれた祖父、一男さんへの思いを込めて「一」という字の入った『万里一空(ばんりいっくう)』という四字熟語が踊っていました。この口上に琴奨菊のあふれるような家族愛を感じ取ったファンも多かったはず。思わず涙がこぼれる話、胸を打つ話の底に流れているものも、やはりやけどしそうな熱い人間愛、絆なんですね。第12回に続いて大相撲界人情話です。
※月刊『相撲』平成22年11月号から連載された「泣き笑いどすこい劇場」を一部編集。毎週火曜日に公開します。

鎮魂の土俵入り

平成7(1995)年6月、戦後50周年を記念し、太平洋戦争末期の激戦地、日米両軍5万人が死傷した硫黄島で、出羽海理事長(元横綱佐田の山)以下140人が参加し、貴乃花、曙の両横綱による鎮魂の土俵入りが行われた。日本から1250キロのところに浮かぶ南海の孤島で、埼玉・入間基地から自衛隊機で往復する1泊2日の強行軍だった。向こうでの予定はぎっしり。戻ってきた力士たちは、

「いやあ暑かったな」

「もう疲れたよ」

としきりにこぼしていたが、一人だけ、とても爽やかな顔をしていた男がいた。幕内格行司の式守与太夫(のちの34代木村庄之助)だった。

「実は、自分のオヤジ、硫黄島で亡くなっているんですよ。まだ26歳でした。陸軍の徴用兵でしたから、たぶん、位は一番下だったんじゃないですか。いよいよ明日入隊、という日、1歳だったオレと兄貴と風呂に1時間ぐらい入って、泣いていたそうです。死んだ場所ですか? 戦死公報には、“テニアン(サイパンの隣の島)方面にて”と書いてありましたが、オフクロは硫黄島に行く途中の洋上だったと言い、兄貴は硫黄島で会った人がいるので、絶対に硫黄島だ、と言うんですが、実際はどこだったか、分かりません。御国からもらった白木の箱は空っぽで、手掛かりになるようなものは何も入っていないんですから」

つまり、与太夫にとってはまだ物心がつかないときに戦死した父親の墓参りの旅だったのだ。出発するとき、与太夫は、花と、オヤジが大好きだったという日本酒と、水を持参した。

「どこで死んだのか、分からないので、島で唯一の高地の摺鉢山(すりばちやま)の麓とか、島のあちこちに、オヤジ、さあ、飲んでくれ、と言いながら酒を注ぎ、花を供え、水をかけてきました。水も、日本の名水をわざわざ持っていったんです。帰りに、海の砂と、自衛隊員がくれた水に浸けるときれいな緑色になる石を持ってきました。ホラ、硫黄島の砂だよ、と言ってオヤジの墓の周りに撒いてやろうと思って。自分にとってはとてもいい親孝行の旅になりました。一般の人はなかなかいけないところで、行司になって本当に良かったと思います」

と与太夫はしみじみと話した。力士や行司らに巡業、公演は付き物だが、こういう心温まる旅もある。

月刊『相撲』平成23年11月号掲載

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