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2024-01-24

飛行機嫌いのジャンボ鶴田が飛行機移動…阪神淡路大震災2日後に開催された全日本プロレス大阪大会の舞台裏2【週刊プロレス歴史街道・大阪編】

ジャンボ鶴田

 あれから29年が経過した。1995年1月17日早朝、阪神・淡路地区を襲った地震はマグニチュード7.3、最大震度7。津波こそ発生しなかったものの、大都市を襲った大地震は、最終的に死者6434人、行方不明3人、負傷者4万3792人、建物の被害68万9776棟と発生当時において戦後最大の被害をもたらした。

特に神戸市東灘区から長田区にかけては火災も発生するなど壊滅的だった。2日後には大阪から西宮市内までJR、阪神、阪急各路線が運転を再開したが、まだ神戸まではつながっておらず。当時、新日本プロレス所属だった金本浩二は、芦屋から長田区の実家まで、約20kmを徒歩で戻ったという。

 5年7カ月ぶりの“大阪三冠戦”が大きな話題となっていた1995年1月19日の全日本プロレス大阪大会は、新春らしく大阪のファンへのお年玉的なカードも組まれていた。2日前に阪神淡路大震災が発生したことで大会自体が中止になってしまう懸念もあったが、最終的にジャイアント馬場社長が開催を決断。だが会場入りした各選手は、とても平常心ではいられなかったという。

 そんな舞台裏を同大会のプロモーターだった伊藤正治氏の言葉を交えながら振り返る。(週刊プロレス本誌1598号、2011年10月12日付掲載記事を加筆・編集。文中敬称略)

     ◇      ◇      ◇

 阪神淡路大震災2日後に開催された全日本プロレス大阪大会。発表されていた対戦カードは第1試合から順に以下の通り。

(1)井上雅央vs志賀賢太郎
(2)ラッシャー木村&百田光雄vs永源遙&マイティ井上
(3)渕正信&小川良成vsアブドーラ・ザ・ブッチャー&ジャイアント・キマラ
(4)菊地毅&浅子覚vsザ・ファンタスティックス(ボビー・フルトン&トミー・ロジャース)=アジアタッグ王座決定リーグ戦公式戦
(5)田上明vsトミー・ドリーマー
(6)スタン・ハンセン&カンナム・エキスプレス(ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット)vsスティーブ・ウイリアムス&ジョニー・エース&ジョニー・スミス
(7)ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田&三沢光晴vs秋山準&大森隆男&本田多聞
(8)川田利明vs小橋健太=三冠ヘビー級選手権試合

 前日の1995年1月18日は愛知県田原町(現・田原市)で試合。大阪へは当日移動。一行はバスだったので通常より時間はかかったものの、大きな支障はなし。唯一、鶴田のみが東京から大阪入りすることになっていた。

 鶴田は93年10月に肝炎での長期欠場から復帰して初の大阪大会参戦。それまではファミリー軍団vs悪役商会に組み込まれていたが、この時はお年玉的な意味合いも込めて馬場、三沢とトリオを組み、将来が期待される新鋭に胸を貸すカードが組まれた。

 しかし東海道新幹線は京都で折り返し運転。京都で在来線に乗り換えれば大阪にたどり着くものの、大幅に本数を減らしての運行。そこで空路で大阪入りすることとなった。

 とはいえ鶴田は飛行機嫌い。というのも、アメリカ遠征中に乱気流に巻き込まれて墜落するんじゃないかと思った経験があったから。国内はどんなに遠距離でも鉄道で移動しており、「何年かぶりに飛行機に乗った」と語っていたそうだ。

 その鶴田を関西国際空港まで迎えに行った伊藤正治プロモーター。それまで鶴田と顔を合わせてもあいさつを交わす程度だったが、同い年ということもあって話がはずみ、府立体育会館まで車中で初めてゆっくり話したという。「意外と気さくなんだと思ったし、ほかのレスラーと違うまともさがあった」が、伊藤氏が抱いた鶴田の印象だった。

 鶴田を会場に送り届けて感じたのは、いつもと異なる試合前の雰囲気だった。開催決行は馬場社長の決断だったが、被災直後にビッグマッチのリングに上がるのは誰もが初めてのこと。開場時間が迫ってくるにつれ、「会場に来られないファンもいるだろうし、こんな状況でどんな試合をしたらいいんだろうか?」との思いが強くなる。「試合したくない」と漏らした選手もいたという。

 しかし、ひとたび試合が始まると、いつもの全日本らしい“明るく楽しく激しいプロレス”が繰り広げられた。それは観戦している間だけでも、つらいことを忘れさせてあげようとの気持ちが伝わってくる闘いだった。(つづく)

<プロフィル>
伊藤正治(いとうまさじ) 1951年12月10日生まれ、宮城県栗原市出身。旗揚げ戦前の新日本プロレスに入門。浜田広秋(グラン浜田)、関川哲夫(ミスター・ポーゴ)が先輩で、すぐ下の後輩が藤原喜明、小林邦昭。バトルロイヤルでプレデビューするも、ヒジの負傷で正式デビューを待たずしてプロレスラーを断念、営業に転向する。当時から大阪を担当。営業部を独立させる形で大塚直樹氏が新日本プロレス興業を設立。その後、ジャパン・プロレスが旗揚げされると、その流れから全日本プロレスの興行を手掛け、長州力vs天龍源一郎シングル初対決や長州vsジャンボ鶴田の大阪城ホール大会などを担当。Uターンでジャパン・プロレスが分裂すると、永源遙の勧めで独立、武藤敬司社長時代まで全日本の大阪大会のプロモーターを務める。その後、新日本「FANTASTICA MANIA」大阪大会をプロモートするも、コロナ禍で中断されたことと70歳を迎えたことで勇退した。

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