昨年はブダペスト世界選手権で順天堂大OBの泉谷駿介(住友電工)、三浦龍司(現・SUBARU)がファイナルに進出。また泉谷は日本選手権、三浦はダイヤモンドリーグ・パリ大会で日本記録を樹立し、村竹ラシッド(現・JAL)も日本インカレで日本タイ記録をマークした。
パリ五輪での活躍も期待される順大OB、3選手を指導する山崎コーチ、長門コーチに大学生アスリート育成の神髄に迫る。
世界で羽ばたくために枠にはめない指導を
――今回は泉谷駿介選手(住友電工)、村竹ラシッド選手(JAL)、そして三浦龍司選手(SUBARU)を念頭においてのお話をさせていただきますが、ほかの選手も含め、突出した個性や能力を持つ選手が入学した際に、順天堂大学では意識を世界に向けるための特別な声掛けや目標設定は行っているのでしょうか。
山崎 順天堂大学の学生であり、陸上競技部の部員であるという点ではどんな能力を持っていても特にほかの選手との違いはありません。どんな競技レベルでも陸上競技をする上でインカレや駅伝でチャンピオンを目指しますし、その先の日本一、そして世界を目指して取り組んでいます。ですから、特に行っていないというのが答えになりますね。長距離ブロックも同じ陸上競技部の一員なので、駅伝だけを頑張ればいいという考えもありません。順大陸上部は日本一を目指すというポリシーを持ち、そこに向けた取り組みができるのであれば、競技力を問わず入部できる組織です。そのなかで実力に応じてテクニカルなことやフィジカルの課題や目標を見つけながら、強化を進めています。
長門 今の話にあった通り、私たち長距離ブロックも“陸上競技部である”という考え方は徹底しています。駅伝も当然大事ですが、個人としての結果を求めることを重視し、その取り組みをしているという話は入学前の高校生にもしています。リオデジャネイロ五輪に塩尻和也(現・富士通)が出場し、三浦もそれに続いて東京五輪の代表を手にして入賞するなど世界大会で活躍する姿を見せたことで、駅伝を第一に考える大学と違いが生まれていると思います。今はそうした志を持つ選手が順大に来てくれている感覚はあります。
――泉谷選手は入学当初は跳躍ブロックでしたし、三浦選手も3000mSCに特化した専門的なトレーニングは行っていないような印象でした。まずは潜在能力を生かすといいますか、早くから専門化を進めないことは意識しているのでしょうか。
山崎 そこは特には意識していませんが、(村竹)ラシッドもそうだったかもしれません。インターハイで勝つなど全国レベルでの実績はありましたが、高校でも専門的なトレーニングはしていなかったですし、大学に来て急にそうしたことはしたというわけでもありません。
長門 三浦の場合は感覚が優れた選手でしたので、基本的にはその感覚を重視していたという感じです。これまで技術に対する専門的なトレーニングは行っていません。今後の伸び代だと思います。
――それでも早いタイミングで世界に出て活躍していきました。
山崎 私たちの経験や知識だけをもとにそれぞれの選手の世界への道筋を決めてはいけないと思っています。どうしても固定観念にはめてしまいがちですが、世界を目指せるだけの選手が出てきたとき、より羽ばたかせるためには、私たちの知る歴史ややり方にとらわれてはいけないのです。あくまで私たちは世界に出るための準備をする立場であり、世界に出たときに最善のコーチングをするというのが基本的なスタンスですね。世界に出る足がかりができたときにいかにして羽ばたかせ、そこで結果を残すかということを重視しています。
長門 三浦が東京五輪で入賞した後、「ダイヤモンドリーグ(以下、DL)に出られますか?」と山崎先生に相談したんですが、スムーズに話が進んだのはそういう準備が順大にあったからだと思います。
山崎 もちろん世界で戦える選手を育てることを目指しています。ただそのやり方は型があるわけではありませんので、選手に合わせて柔軟かつ固定観念を持たずにやっていくというだけです。そして泉谷は競技力を高めていく過程で三浦がDLに出ている姿を見て、「自分も出たい」と言うようになり、こちらも「よし、準備してきたことを発揮できる」と彼に対してもそのサポートをしたのです。
泉谷は昨年、ダイヤモンドリーグ・ローザンヌ大会で優勝。ブダペスト世界選手権では日本人史上初の決勝進出で5位入賞を果たした(写真/中野英聡)多くの人のいる集団に流されないことが大切――泉谷選手、三浦選手は2年目の日本選手権、村竹選手は4年目の日本インカレで日本記録に手が届きました。世界を目指す上で日本記録を早めに出すことはやはりステップとして考えてはいますか。
山崎 確かに日本記録を出せば、いろいろなチャレンジがやりやすくはなります。一方で日本記録を出すだけでは世界で戦えません。世界で戦うことを目指すのであれば、世界のなかでの立ち位置を考える必要があります。例えばラシッドは昨年の記録で世界的なレベルには達しましたが、現在のところワールドランキングが低いのでDLには出ることができないのが現状です。
長門 三浦もそうですよね。2年目からのDL参戦も日本記録が評価されたのではなく、東京五輪7位の結果があったからです。もちろん日本記録は大きなステップですし、そこを越えないことには上の記録は狙えないわけですからクリアしていくことは重要です。三浦は当時の日本記録の壁を超えたことでの次のステップを見据えるきっかけになったと思います。
山崎 日本記録を考えることは、“日本”という枠のなかで考えることと同じです。実際、泉谷もラシッドも日本記録を出したときはうれしかったでしょうけど、「ここで終わりではない」という感触があったはずです。
――“枠にはめない”という指導は頭では理解しても、なかなか実践は難しいところです。
山崎 私たち指導者が気をつけなければいけない点はインカレや箱根駅伝など多くの人が関わり、共感を得やすいフレームのなかで物事を考えたり、取り組んでしまいがちなところです。その重要性を理解しつつも、そこだけに引きずられないように気をつけなければいけません。もちろん学生にとってインカレは最大の大会であり、箱根駅伝も同様でしょう。一方、オリンピックを目指そうという選手は大学陸上界においては少数派で母数も少ない集団です。その選手たちはその母集団の大きなものの範疇だけに収まらないようにしなければなりません。三浦が3年目、4年目のときの日本インカレは彼のDLとスケジュールが重なりましたが、幸いなことにほかの選手たちが「DLで頑張ってこい」と言って送り出してくれました。三浦自身の世界への意識に加え、そうした環境があったらからこそ高いところにチャレンジできたと思いますし、本人も仲間に感謝しているようです。
長門 私自身、学生の間に順大の陸上競技としての本質を求める考えを理解していたつもりですが、心のどこかで、駅伝さえ走れればいいという考えを持っていました。しかし実業団を経て、指導者として戻ってきたときに改めて順大の陸上競技を重視する姿勢を感じましたし、三浦と共に東京五輪やDLを経験したことで完全に“世界”という扉を開けて、そのなかをのぞいてしまったんです。そこからは私自身、駅伝だけの長距離大国にならないためにも順大らしくブレずにやっていこうと思いました。ですから多くの人にDLのような競技場が満席になる競技会を見てほしいと思っています。
――山崎コーチの言葉にある通り、関東の大学長距離界には箱根駅伝があり、そこに目標も周りの意識も向きがちです。そのなかで三浦選手が箱根駅伝を走りつつ、3000mSCでもステップアップしている要因はどこにあると思いますか。
山崎 それも長門コーチが型にはめることなくおおらかに彼の個性を尊重したからだと思います。「あれをやれ、これはダメ」と細かく指示していたらきっとうまくいかなかったでしょう。駅伝は毎年条件が変わりますが、攻略の方法には一定の法則があります。ただトラックで世界で戦うためには毎年、同じ取り組みでは置いていかれてしまいます。長門コーチがその両立を実践できているからではないでしょうか。
三浦は東京五輪7位、2大会連続の出場を果たした世界選手権では昨年のブダペストで6位入賞を果たした。この春からはSUBARUで競技継続(写真/中野英聡)卒業後の指導も、それぞれのやり方で――山崎コーチが指導する泉谷選手は卒業から3年目のシーズンが始まり、村竹選手、三浦選手はこの春に大学を卒業しました。今後の指導についてはどんな展望をお持ちですか。
山崎 今、泉谷はNTC(ナショナルトレーニングセンター)を拠点としていて、私が週1、2回と合宿のマンツーマン指導ですし、ラシッドは順大を拠点に指導しています。これまで同様、それぞれの個別性を重視していきます。
長門 三浦も拠点は大学近くに置き、ポイント練習を大学で行うことになります。
山崎 彼らへの指導でやることは多くあります。以前は一流選手だから自由にやってもらい、こちらはそれを見守る形でしたが、近年はそこに積極的に介入しています。練習メニューなどもプレゼンし、それに対して選手がどう考えるのかを聞き、修正していくのです。このようにしたのはこの1年くらいですが、泉谷は以前の練習とだいぶ変わってきました。方法論はいろいろあって正解はありません。海外遠征も私の現役時代は単身での武者修行が課せられていましたが、泉谷はマネージャーやトレーナーが帯同し、フルサポートの下で行きます。多分、私と同じやり方をしていたら潰れていたでしょう。一方、ラシッドは世界中の選手のなかに溶け込んでやりたい考えがあるようです。目的は競技で結果を残すことなので、そこまでのプロセスはいろいろあって当然だと考えています。
長門 三浦はこれまでほかの選手と一緒に行動するなかで、個別で練習することが多かったですが、ポイント練習以外の部分では自身で組み立てるところも出てきています。これまではこちらがある程度のレールを敷いていましたが、今後はどのように羽ばたいていくか楽しみですね。もしかしたら、いつか山崎先生が言うように積極的に介入しているかもしれませんね。
山崎 枠にはまらないという話をしてきましたが、その形で世界のトップの枠を目指します。110mHで言えば12秒台は歴代で24人しか出していない領域であり、そこがターゲットになります。そしてラシッドは次は世界大会のファイナリスト、泉谷はメダリストという称号が手にできるように、目線を世界のトップレベルに置き、それに必要な取り組みを日々、進化させながらやっていければと考えています。
長門 同じですね。3000mSCでの7分台は13人です。そこへのチャレンジになります。
山崎 順大陸上部としてはそうした選手からインカレ出場を目指す選手までがピラミッドのような構造として構成されています。今はそれがうまく機能していますが、その在り方や運営の仕方なども今後は進化させていかないといけないかもしれません。今後も継続的にその点も追求していければと考えています。
村竹は2022年のオレゴンで世界選手権初出場。昨年はケガもあったがダイヤモンドリーグ・アモイ大会で5位に入った。この春からはJALで競技継続(写真/三尾 圭)山崎 一彦
やまざき・かずひこ◎1971年5月10日生まれ。武南高(埼玉)→順天堂大→筑波大大学院修了。1995年イエテボリ世界選手権では400mHで決勝進出。バルセロナ(1992年)、アトランタ(1996年)、シドニー(2000年)の五輪3大会では400mHで出場。2001年に競技引退後、2003年から14年3月まで福岡大、同年4月からは順天堂大で指導。日本陸連強化委員長。順天堂大陸上競技部専任コーチ。
長門 俊介
ながと・しゅんすけ◎1984年5月4日生まれ。諫早高(長崎)→順天堂大。大学時代は1年目から箱根駅伝に出走し4年連続で9区を担った。4年時には区間賞を獲得し総合優勝に貢献。卒業後はJR東日本で競技を継続した後、2011年から母校のコーチに。16年から順天堂大陸上競技部男子駅伝監督としてチームを率いる。
※4月12日発売の「陸上競技マガジン5月号」掲載内容に不備がございましたので、内容を再編集した記事を掲載しています。関係者の皆様にお詫び申し上げます。