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2025-02-16

【アイスホッケー】岩本裕司(横浜グリッツ・ヘッドコーチ) 終わらない、「チーム」としての思い。

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日本代表、そしてアイスバックスでもチームを率いた岩本さん。今季からはグリッツのヘッドコーチを務めている

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ファンをおどろかせた「雪印」の衝撃。

 2月15日、横浜グリッツは、昨年はIJリーグを戦った東京ワイルズと練習試合を行なった。結果はグリッツの2-0。グリッツは昨年の8月にもワイルズと練習試合を戦っているが、岩本裕司ヘッドコーチ(横浜グリッツ)は「ワイルズは少ないメンバーの中、そして今シーズンは、ほぼ練習ゲームのような試合しかなかったのにも関わらず、選手たちのモチベーションを落とさずにまとまっていました。これには感心しましたね」と言った。

 相手の齊藤毅監督とは、かつて栃木日光アイスバックスで「監督」と「選手」の間柄だった。2014年には、この新横浜で開催された全日本選手権で優勝している。さらにいうと1999-2000からの2シーズン、日本リーグの雪印でも監督と選手だった。それから四半世紀の時間が経過した。「ワイルズにとって大変な時期は続くと思いますが、毅は日本にとって必要なコーチであることは間違いない。腐らずに頑張ってほしいです」と岩本さん。いまもって2人は、特別な関係なのだ。

 岩本さんは、1981年から日本リーグでセンターフォワードとして活躍し、最後は雪印の監督を務めていた。

 古くからのファンの人は、岩本さんに敬意を表してこう呼んでいる。「ミスター雪印」。雪印は1979年、第14回の日本リーグから岩倉組を受け継ぐ形でチームを誕生させた。岩本さんは雪印がリーグに加盟して3年目の1981年に、駒大苫小牧高から入社。以来、雪印が廃部となる2000-2001シーズンまで、20年にわたって戦い抜いてきた。

 クラブの正式な名称は「雪印アイスホッケーチーム」といった。普通なら雪印乳業アイスホッケー部としたはずだが、「アイスホッケーは雪印の全グループを代表するチームスポーツ」という期待が、企業風土と合致したのだ。リーグ2年目の1980年には、雪印スケートセンターと合宿所を「雪印バター発祥の地」札幌の上野幌に建てている。年間予算は日本リーグでもトップクラス。現在に当てはめるなら、アジアリーグのチームが2~3個できてしまう規模だ。それはちょうど同じ年(1979年)に、福岡からやってきたライオンズが埼玉県の所沢市に移転する姿に似ていた。北海道を代表する「札幌の雪印」は、健康的な企業イメージそのものの、まさに「脅威のスポーツチーム」だった。

 雪印はリーグ1年目の1979年こそ1勝14敗で最下位の6位に終わったが、2年目の1980年には3勝16敗1引き分けで古河電工を抜いて5位になっている。全日本選手権が終わった1981年3月のJOCカップでは、雪印が初優勝。「近い将来、雪印がリーグのタイトルを獲る」。このころは、そんな予感がホッケーファンの間にはあった。

 1980年代の日本リーグは、3回戦総当たりから4回戦、さらに6回戦と、年ごとに勢いを増していた。12月の日本リーグ終盤には東京・代々木で集結ゲームを行い、夜のスポーツニュースでは試合の模様をダイジェストで放映している。王子製紙の引木孝夫、本間貞樹、高橋啓二。西武鉄道の若林修、三沢実、堀寛、榛澤務。それに国土計画の星野好男、運上一美。特にアイスホッケーのファンでなくとも、テレビのスポーツニュースを見ていれば、日本リーグの有名選手の顔は自然と覚えていくものだった。

 アイスホッケーは、サッカーやバスケット以上に花形のスポーツ。そんな時代に、雪印が新しい歴史をつくろうとしていた。1980年代の実業団スポーツにはそれだけの華があって、資金的にも余裕があった。言い方を変えれば、テレビというものに対して、圧倒的な存在感があった時代だった。

 岩本コーチの兄・和也さんは、元王子製紙のFW。その和也さんを父に持つFW和真(写真左)は現在、グリッツのキャプテンだ
岩本コーチの兄・和也さんは、元王子製紙のFW。その和也さんを父に持つFW和真(写真左)は現在、グリッツのキャプテンだ
 

「代表に入りたかったら、雪印には行くな」

 1962年に北海道苫小牧市で生まれた岩本さんは、兄の和也さんとともにアイスホッケーに夢中になった。当時の苫小牧は王子製紙と岩倉組の2つの日本リーグチームがあり、岩本さんのお父さんは岩倉組の社員、お母さんは岩倉組のアイスホッケー部の合宿所で食事を作る仕事に就いていた。家は岩倉組の社宅。岩本さんの未来は、それで決まったようなものだった。

 岩倉組のカエデの葉をあしらった緑のユニフォームは、特に子どもに人気があった。日本リーグでは第1回(1966年)と第2回(1967年)のチャンピオン。ホームリンクの岩倉組体育館は、苫小牧市の三光町と住吉住宅の間に建っていた。試合会場はもっぱら王子スポーツセンターで、岩倉組体育館は市民の練習スポット。木造のスタンド裏には、無数のパックが落ちていたものだ。ちなみに女子の道路建設ペリグリンのユニフォームは、そもそもの母体である、この岩倉組をモチーフにしている。

 岩本さんのあこがれは、岩倉組で最後のキャプテンを務めたFW桜井秀男さん(のちに国土計画)だった。桜井さんの背番号は「13番」。緑色、カエデ、13番は、その後も岩本さんのラッキーアイテムになっている。

 岩本さんは雪印が日本リーグに加盟した3年目の1981年に入社した。1年前(1980年)には、法政大学からFW田中誠二郎さん(東北フリーブレイズの田中豪、田中翔、田中遼のお父さん)が入社し、同期には苫小牧工高の長身DF「ラリー」近村正輝さん、のちの代表キャプテンのFW倉田幹也さん(法政大学)がいた。5年目の1983年には法政大学を中退したFW田中健二さん(誠二郎さんの弟)、DFの「ジャンボ」鈴木堅一さんといった、代表で活躍する選手がそろっていく。

 チーム発足から6年目の1984年(第19回)の日本リーグで、雪印は初めて2位になっている。岩倉組では日本代表で活躍した、伊藤実監督の時代だ。

 西武ライオンズが移転4年目の1982年に優勝したように、アイスホッケーの世界でも時代をつかむチームには、ふさわしい優勝の時期があると個人的には思う。西武鉄道は、第5回(1970年)の日本リーグで初優勝。第7回から参加の国土計画は、創部して3年目の第9回日本リーグ(1974年)で初めて優勝した。アジアリーグでいうと、震災の影響で両チーム優勝となった2010-2011シーズンを除けば、フリーブレイズが加盟4年目の2012-2013シーズンに晴れて単独で優勝している。そのフリーブレイズには、かつて雪印でプレーしていたGK橋本三千雄がいた。

 雪印の「その瞬間」は、22年間のあいだに1度も訪れることはなかった。2大タイトルである日本リーグと全日本選手権は、最高成績は2位止まり。主だった成績は、日本代表抜きのメンバーで行われるJOCカップの優勝(1981年、1991年)だけだ。それを、どれだけの人が覚えているだろう。

 当時のことを岩本さんが話してくれた。

「僕は卒業後の進路を、東京のチームに決めかけた時があるんです。でも母親の気持ちを考えて、雪印に変えたんですよ。母親は、息子が遠い東京に住むよりも、北海道のほうが安心できると言っていたんです」

 当時の「日本リーグ関係者」が、岩本さんの進路に異を唱えた。東京のチームをソデにするとはどういうことか。「東京のホッケー関係者」は、そのまま「日本のホッケー関係者」でもあった。

「それで僕は、ナショナルチームにはなかなか呼ばれなかったんです。当時はそれが悔しくて、たまらなかったんですけどね。今にして思えば僕の人生があるのは雪印のおかげ。本当に感謝しているんです」

「雪印が強くなっていったころに、雪印には選手を行かせるなという動きがありました。日本代表に行きたかったら雪印には行くな。日本リーグを目指す選手からすれば、それがスカウトの殺し文句だったんですよ」

岩本さんがプレイングコーチの初年度(1999-2000シーズン)、雪印のルーキーだった齊藤毅(写真中央、現東京ワイルズ監督)。3学年下の弟・哲也(写真左)も、雪印入りが内定していた。廃部によって2人は王子製紙に入り、バックス移籍後は岩本さんとともに戦った
岩本さんがプレイングコーチの初年度(1999-2000シーズン)、雪印のルーキーだった齊藤毅(写真中央、現東京ワイルズ監督)。3学年下の弟・哲也(写真左)も、雪印入りが内定していた。廃部によって2人は王子製紙に入り、バックス移籍後は岩本さんとともに戦った


僕が監督になって、強くなる兆しがあった。

 昨年12月の全日本選手権で、思わぬ形で「雪印」の名前がクローズアップされた。

 全日本の準々決勝で、関東大学1位の東洋大学が、グリッツにPS戦(4-3)で土をつけたのだ。全日本で大学がトップリーグのチームを破ったのは3度目。この「番狂わせ」でかつて話題になったのが、1992年9月の全日本で、雪印が明治大学に3-4で敗れた試合だった。岩本さんは当時、雪印のキャプテン。全日本で3度あった番狂わせのうちの2回が「岩本さん絡み」だった。

 1992年の明治大学は、部が始まって以来の黄金期を迎えていた。部員のうちの16人、第3セットまで実業団に進む選手が顔を並べていたのだ。明治だけではなく、関東の大学にはスター選手がそろっていた。春先に行われている「チャレンジャーズカップ」では、古河電工が学生選抜に苦杯を喫していたものだ。

 全日本選手権と雪印でいうと、明治に敗れた半年前、苫小牧で行われた予選リーグの試合も印象的だった。

 予選リーグは、1試合目は西武がコクドに勝ち、2試合目は雪印が西武に勝っていた。3試合目のコクド-雪印は、3ピリが終わって2-2。そのまま延長戦に入ったのだが、ルール上、すでに1勝を挙げている西武と雪印が決勝トーナメントに進むことが決まっていた。延長戦に入ると、キャプテンの岩本さんが驚きの行動に出る。雪印のゴールに向かって、文字通りの「オウンゴール」を叩き込んだのだ。

「コクドは決勝トーナメントに進むことができずに、延長では、雪印にケガをさせにいこうと考えているのがわかったんです。選手にケガさせたくない一心で、僕が雪印のゴールに向けてシュートを打った。それは、ルールへの反抗でもあったんです」

 全日本選手権、特に北海道での試合だったから、大勢の記者が取材に集まっていた。北海道に、まだプロ野球もJリーグもなかった時代。「真剣勝負なのに、味方に向かってシュートを打つとはどういうことか」。岩本さんのゴールは全国紙でも大きく取り上げられた。

 雪印の廃部は、2000年に起こった食中毒事件が発端だった。廃部の発表があったのは、シドニーオリンピックでマラソンの高橋尚子が優勝して日本中が沸いていた、9月下旬のことだ。

「僕が監督になってから、チームに引っ張ってきた選手がいました。大野直人、吉田直人、そして齊藤毅。チームの勝ち負けも大事なんですが、どうやって彼らにホッケーを続けさせようか、そればかり考えていたんです。雪印は万年Bクラスだったんですが、僕が監督になって、強くなる兆しがあった。楽しみなシーズンになると思っていたんですがね」

 雪印としてのラストイヤー、2000-2001シーズンは、日本リーグでは過去最高の2位だった。岩本さんは他のチームメイトと同じように、チームの気持ちを1つにするために金髪でプレーオフに臨んでいる。

 日本リーグを退会する際、どんなやりとりがあったのかはわからない。わからないが、関係者の話を総合すると、会社が「日本のアイスホッケー界」に対して相当の不信感を持っていたことは否めなかった。

 2001-2002シーズン、「札幌ポラリス」を支援して雪印のアイスホッケーは終わった。なかでも「雪印ジュニア」がなくなったのは大きかった。苫小牧も釧路も、当時の中学校は単独でチームを持てる時代だったが、札幌の雪印ジュニアは、その強豪校をことごとく倒していたのだ。選手のOBが指導者で、選手の子どももチームにはいた。もし雪印ジュニアの選手が、大人になってトップリーグに上がっていたら、そして何より「雪印を選択すること」が日本代表を選ぶ際に正当に評価されていたなら、この国のホッケーの歴史は変わっていったように思うのだ。

 「何年たっても、アイスホッケーに飽きることはないんです」。人並外れたホッケーへの意欲は、そのまま岩本さんの資質だといえる
「何年たっても、アイスホッケーに飽きることはないんです」。人並外れたホッケーへの意欲は、そのまま岩本さんの資質だといえる
 
グリッツの選手は、人として尊敬できる。

 2000-2001シーズンを戦い終えた岩本さんは、札幌でサラリーマン生活に入った。雪印は退社してしまったが、周りの人たちが岩本さんを放っておかなかったのだろう。

 ただ気持ちの中には、どうしても捨て去ることのできない思いがあった。

「もう一度、アイスホッケーの指導者をやり直してみたいと思ったんです。雪印の時はプレイングコーチだったこともあって、戦術のことはウイリー(・デジャーデン)コーチに任せっきりだった。本気で選手を指導していたら、どんな結果が待っているんだろう。これは僕の人生の大きな賭けでした」

 岩本さんは札幌を離れ、東京に住むことにした。すると2004年、日本代表の「アンダー20」のコーチとして声がかかった。やがてU20日本代表の監督に。2013年からアイスバックスに監督として迎えられ、2017年からは日本代表の監督になった。

 2024年になって代表スタッフの任を解かれたが、今度は横浜グリッツがヘッドコーチとして迎え入れてくれた。グリッツは2月2日時点で、アジアリーグでは8勝16敗。8勝はリーグ5年目での最高記録だが、順位的には5チームの最下位にとどまっている。

「昨季に比べて、どこのチームを相手にしても戦えるようになっていると思います。特にDゾーンではよく守っている。ただ、グリッツの選手にはずるさがない。そこが勝ちきれないところだと思うんです」

 1月5日、レッドイーグルス北海道との試合では、延長のオーバータイムであえてGKを上げて「4人攻撃」をしている。結果は、レッドイーグルスのエンプティ。2点目を献上して、グリッツは敗れている。

「レッドイーグルスはPSに自信を持っていて、そのぶん3オン3には無理をしない。グリッツが勝つにはオーバータイム中に決めるしかないと思い、トライしたんです。 僕は基本的に、ギャンブルプレーは好きではありません。だけど、勝つことで選手に自信をつけてほしかったし、横浜のファンの方に喜んでいただきたかった。そういう意図もあったんです」。そういえば1年前、新横浜での全日本選手権でオーバータイムで「4人攻撃」をしている監督がいた。ワイルズの齊藤毅だ。

 グリッツは2月上旬に、HLアニャンに連勝した。目下のところ、首位チームのアニャンには4連勝。対戦成績は4勝2敗と、日本のチームの中で唯一、勝ち越している。

 岩本さんは、チームの現状をこう話す。

「デュアルキャリアのグリッツは、日本のアイスホッケーの成功モデルにならないといけない。そう感じたから、僕はヘッドコーチを引き受けたんです。一緒にやってみると、グリッツの選手は本当にアイスホッケーが好きなんだということがわかる。尊敬できる人間の集まりなんです」

「NHLでは今も新しい戦術ができています。それをどうやって落とし込もうか。それを考えている時が、僕は一番楽しいんです。飽きないんですよ、アイスホッケーは」

 岩本さんが「ミスター雪印」と呼ばれて、もう何年が経つだろう。楽しいことばかりではなかったはずだが、岩本さんは今も「アイスホッケーは人生にとっての喜び」として競技に取り組んでいる。

 46年前、雪印がいだいていた「チーム」としての姿。それは形をかえて、岩本さんの生き方と重なっているように見えた。そしてそれは、ワイルズをなんとかしたいと願う齊藤毅だったり、47歳になった今も現役でプレーを続ける橋本三千雄の生きざまに表れている。そんな気がするのだ。

岩本裕司 いわもと・ゆうじ
横浜グリッツ・ヘッドコーチ。1962年4月8日生まれ。北海道苫小牧市出身。苫小牧緑小でアイスホッケーを始め、和光中、駒澤大学附属苫小牧高校を経て1981年、雪印に入社。第16回から第35回日本リーグまでの20年間、現役生活を務め、「ミスター雪印」あるいは「氷上の志村けん」と親しまれる。背番号は「13」。日本リーグ記録となる通算604試合に出場し、239得点、263アシスト。第22回日本リーグで最多アシスト(30試合で23)、最多ポイント(41)を受賞する。第34回日本リーグからは2年間、選手兼監督を務め、雪印の最後の年(第35回・2000-2001シーズン)は2位だった。日本代表として世界選手権に3回出場。引退後はサラリーマン生活をはさんで、U20の日本代表監督、そして北米のジュニアチームの指導者に。2013年からは栃木日光アイスバックスの監督を4シーズン務めた。2017年から日本代表の監督とコーチを7年間。2024-2025シーズンから、横浜グリッツのヘッドコーチに就任する。

山口真一

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