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2020-04-17

【System of Arthur Lydiard vol.12】国境も時も人も越えて今なお、息づく。それはまさに「リディアードの真髄」

 マラソン理論の基礎を築いたといわれるニュージーランドの伝説的なランニングコーチ、アーサー・リディアード。彼のトレーニング理論をリディアード・ファウンデーションの橋爪伸也氏にひも解いてもらう。 ※『ランニングマガジン・クリール』2017年5月号から2018年4月号まで掲載された連載を再構成しました。

上の写真:1962年夏、ニュージーランドのアーサー・リディアードの元を訪れた日本選手団。リディアードの門下生らと握手しているのは故・中村清監督(左端)

いち早く導入した日本勢

 中距離選手は週に3~4日、トラックで速いスピードでのスプリントの反復を数回する。1960年のローマ五輪当時は、それが世界の主流でした。一方、アーサー・リディアードは、そんな中距離選手に週7日で160㎞を走らせたのですから、そのトレーニング法はまったく革命的であった、といえるでしょう。

 そしてその門下生たちから、ローマ五輪で金メダル2、銅メダル1の計3人ものメダリストが生まれたのですから、そのトレーニング法が世界中の注目を浴びないわけがありません。またその4年後、64年の五輪ホスト国は日本でした。ローマ五輪の銅メダリスト、バリー・マギー(ニュージーランド)は懐かしそうにこう話します。

「われわれが行っていた『リディアード方式』のトレーニングを世界でいち早く導入したのが日本だった」

 ちなみにこのマギーは、ローマ五輪のあった60年の暮れに日本で初めて、朝日マラソン(福岡国際マラソンの前身)にて2時間20分の壁を破って優勝しています。

 日本一チームは62年夏と翌63年夏の2度にわたり、トップレベルの長距離ランナーたちをニュージーランドに送り込み、約2カ月間の合宿を行いました。先発隊は団長が、故・中村清監督。そして選手団にいた寺沢徹が、帰国後の63年別府大分マラソンで、アベベ選手の記録を上回って優勝、当時の世界最高記録(2時間15分15秒)を樹立しました。

 また、2度目の合宿にいた故・円谷幸吉は、当時はマラソン未経験ながら、トラックでのスピードを買われて参加しており、翌64年の東京五輪では見事に銅メダルを獲得。さらにその4年後の68年メキシコ五輪で、銀メダルに輝いた君原健二もまた、このニュージーランド合宿に名を連ねていたのです。

「ローマ五輪以降、日本勢が五輪で連続してマラソンのメダルを獲れたのは、リディアードのおかげなんだ」と、マギーは力説します。実際、当時の日本勢が学んだ「リディアードの真髄」は、いまだに日本ランニング界の根底に力強く脈打っているのです。


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