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2020-04-17

【System of Arthur Lydiard vol.12】国境も時も人も越えて今なお、息づく。それはまさに「リディアードの真髄」

あの名伯楽からも返信が

 私自身が、まだ海のものとも山のものともわからなかった85年の春。すでに世界でも屈指のランナーだった瀬古利彦(当時SB食品)の名コーチ、カリスマ性も備えた中村監督に、ある贈り物をしました。それは、リディアードのトレーニング法のパンフレット(『アスレチック・トレーニング』)の手書きの日本語訳(不詳著者訳)です。

一時は世界3位の記録を保持するなど、瀬古利彦を世界屈指のマラソンランナーへと育てあげた名伯楽、中村監督が生前に筆者へあてた返信ハガキ

 すると即刻、ハガキの裏面に万年筆でビッシリと書かれた返事が来て、「一度家に来なさい」とありました。当時、ロックスター並みの人気があった“SB軍団”のボスです。そのような「セレブ」に私がお目にかかれたのも、「リディアード」あってのことでした。中村監督はいつも「いろいろなトレーニングをパズルのように上手に組み合わせる、リディアードのトレーニング法が一番好きだ」と公言されていました。

 その監督のご自宅の部屋の壁にはロールの茶色の紙が貼られており、そこに瀬古、故・金井豊、中村孝生、ワキウリといった選手たちの名前と、日々のトレーニングがビッシリと書き付けてありました。そして手にした竹刀でそのトレーニング表を一つひとつ指し示しながら、「これなんか、リディアードそのものでしょ」と説明されたことを記憶しています。残念ながら、そんな名伯楽が1週間後、川釣りに行かれて不慮の事故に遭い、帰らぬ人に…。

 後年、私はSB時代の瀬古選手のピークへのもっていき方を知ることになりますが、それはこの連載の第9回で触れたリディアードのピーキング法と重なるものでした。 Qちゃん育ての親も


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