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2020-08-18

【私の“奇跡の一枚” 連載82】 大横綱・双葉山を師匠に頂いた 父の誇りと生き様

写真の、断髪式で昭和の大横綱双葉山の時津風理事長のハサミを受けているのは、私の父、元十両時津浪(ときつなみ)でございます。場所は、相撲界でも特別に『道場』と呼ばれていた墨田区両国の時津風部屋の稽古場。

※写真上=昭和40年、親とも神さまとも思う大師匠・双葉山の時津風親方が、止めバサミで付けてくださった現役とのけじめ。これを終生の誇りに、父の時津浪は第二の人生でも関取を目指して頑張りました。介添えの行司は同部屋の三役格の式守伊三郎さん
写真:月刊相撲

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

親とも神とも思う人

 父は昭和9(1934)年生まれ、青森県三戸の出身で28年9月の初土俵、当時の新弟子検査の身長規定(173センチ以上)の規定に満たない小さな体ながら、同郷の先輩、横綱の鏡里関のおとりなしにより、必死のお願いを理事長にお聞き届けいただき、入門を許されたと聞いております。

 それだけに一生懸命頑張ったのでしょう。36年1月に新十両となり、40年5月場所を限りに引退するまで、大関北葉山、豊山関を擁した錚々たる大時津風部屋の関取の一員として名を連ねさせていただきました。

 父の現役時代のことなど何も知らない私ですが、残されている大師匠と大勢の関取衆との集合写真などを見ると、たとえ身分は十両であっても、双葉山の弟子として誇りも高かったんだろうなと想像します。

 とにかく双葉山の時津風理事長の人品と貫禄は素晴らしいもので、力士はもちろん、親方衆までもが師匠の前に出ると、直立不動になったと聞き及んでおります。

 父は60歳で脳梗塞を患い、平成8(1996)年8月11日62歳で亡くなったのですが、晩年「オレは死ぬことなんかちっとも怖くない」と申しておりました。それはなぜかと言うと、「あっちへ行ったら、またあの双葉山関に会えるから」といった具合でした。

ちゃんこの味が
しみた両国ブルース

 さて、父はかなり多才な人で、引退後母の実家の、都内江東区大島にあった料亭を継ぐ形で、これを当時としては珍しいちゃんこ専門店に切り替えて、様々な企画を実行してまいりました。今でいうインスタ映えする軍鶏(しゃも)メーンのちゃんこの発想もそうですが、もとお相撲さんに似合わぬ大変なアイディアマンでした。

 一方で大相撲に対してはどこまで行っても大真面目、「相撲は真剣勝負」と頑として妥協を許しませんでした。大双葉山の弟子だという自負がそうさせたのでしょう。時津風部屋の力士として生きてきた父の、気に入ったお客さんへの渾身のサービスは、戦後の力士の愛唱歌である『練鑑(練馬鑑別所=ねりかん)ブルース』の替え歌『両国(もしくは相撲取り)ブルース』、そして相撲甚句の定番『当地興行』でした。この2曲を披露すると、お客様は、人一倍の負けん気で、それこそ「ちゃんこの味」のしみこんだ父の唄に感動、涙を流しながら聞き入ってくださったものです。

 そんなちゃんこ店創業から40年を過ぎ、私どもは新規一転この夏場所から、力士時津浪を育ててくれた両国に場所を移してまいりました。両国新国技館の裏手、清澄通りを挟んだ両国第一ホテルの真ん前に構えさせていただいたお店、父の唄こそありませんが、その精神と味だけはしっかり受け継いでいると自負しております。

 店先のテント看板、化粧廻し姿の父のプロマイドが目印です。ほかに目立った相撲関係の飾り物とてありませんが、私どもの味と心意気を感じ取っていただければ幸いでございます。

語り部=和田朋子(『ちゃんこ時津浪』店主)

月刊『相撲』平成30年10月号掲載 

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