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2020-08-04

【私の“奇跡の一枚” 連載81】 世界をにらんでいた栃木山 レオナルド藤田も魅了した小さな大横綱。

長年栃木山を追っかけてきた私が、たどり着いたのがこの一枚である。

※写真上=大正最後の年、場所はパリ。栃木山は稀代の粋人・石黒敬七(右。柔道家にして文化人)に伴われて、藤田嗣治邸(右から2人目)を訪れた。モデルを要請されるなどすっかり意気投合して満面の笑み
写真:月刊相撲

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

栃木山の真実に迫る

 相撲史にも残る、栃木山の鮮やかなまでの引退劇――これについて私は、当時の番付にこだわり、その潔すぎる引き際(3連覇ののちあっさり現役引退)は、番付不満の結果と、長い間ずっと思い込んでいた。

 ところが一方で、栃木山は、引退の数年前から、いずれ相撲をスポーツとして研究するために洋行したいと漏らしていたのだ。

 ここに掲げた写真は、引退翌年、丸一年をかけた欧米漫遊の一コマ。これを見て驚かされたのは栃木山のその笑顔だった。武骨を絵に描いたような栃木山を散々見てきただけに、この満面の笑顔には度肝を抜かれた。開放感に満ちたその顔はしてやったりといった表情にも見える。欧米漫遊はやはり念願だったのだ。

 栃木山は土俵上での戦いでは遠慮の二文字を嫌ったものの、土俵を下りれば常に謙譲の人だった。

 現役時代の栃木山といえば、恬淡(てんたん)・謙遜の人と相場が決まっていた。恬淡は今ではあまり耳にすることはないが、あっさりしていて無欲、地位や名誉に執着しない人となりを指す。ならば、引退の真意に番付不満はあたらないと考えるにいたった。

 それにしても、この強烈で洒脱なショットはどうだ。おかっぱ頭の藤田嗣治がいるせいばかりではないだろうが、役者がそろうとこうまで絵になるものか。

「おらが肖像がフランスの美術館に残った」(栃木山)

 さて、栃木山の日下開山昇進は大正7(1918)年のことで、今年はちょうど百年目にあたる。しかし、郷里・栃木でも大正時代の無敵横綱・栃木山は忘れ去られつつある。名門春日野部屋の創始者であることすら知られてないのが現実。風化しかけている栃木山を何とかよみがえらせたい!

 そんな思いも手伝って私は、今般、『探訪栃木山~横綱昇進百年~』(宇都宮市・随想舎)を出版させていただいた。

 生前決して多くを語らなかった栃木山は、その分、大きな謎につつまれている。栃木山の不可解を挙げればそれこそきりがない。家出入門、剛力、引退、勝負への執念と、多岐にわたる。

 小生は過去に一度、栃木山伝を発表しているが、今回は栃木山のご遺族中田友宏様のご厚意により提供していただいたアルバムをもとに、口絵に、前回では紹介できなかった藤田嗣治の「横綱栃木山の像」(ロダンの彫刻のような体をした栃木山が、藤田の前で直接モデルとなったもの。グルノーブル美術館蔵)と、その華麗な交友を裏付ける写真等も入れることができた。貴重なスナップは相撲ファンばかりでなく、多くの人々をうならせてくれることだろう。

 現役時代から人格横綱と評され、師匠としては昭和の名横綱栃錦、栃ノ海等を育て、戦後角界の発展に尽力した栃木山。その誠実な人柄と人望から、著者は今後、巨人常陸山の“角聖”にあやかり、栃木山をして“角誠”と呼んでいきたい。拙著を通じて、栃木山サポーターが一人でも増えることを願ってやまない。

語り部=板橋雄三郎(栃木山研究家)

月刊『相撲』平成30年9月号掲載 

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