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2020-07-21

【私の“奇跡の一枚” 連載79】 大横綱をおくびにも出さず 友達付き合いをしてくれた北の湖親方

私たちは、本場所の毎日の取組表や星取表の印刷を担当している。毎日の土俵の現場に最も密着した仕事であるところから、協会の印刷部のような存在として、国技館や相撲場に一室を与えられ、毎日朝から晩まで力士の四股名とにらみ合っている。

※写真上=北の湖親方が大きな手で私の顔を将棋の駒のように挟んで王手、将棋天狗の鼻が折られた瞬間!? 気さくでお茶目でもあった親方の一面がうかがえる。こんな関係で長くお付き合いできたことこそが奇跡……と感謝を禁じ得ない思い出の一枚。
写真:月刊相撲

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

引退相撲がきっかけ

 さて、私が30歳で脱サラをして義父の営む島印刷を継ぎ相撲社会にデビューしたのは、昭和49年9月場所であった。この場所後に元大関前の山の高田川親方の引退披露大相撲が行われたのを見、引退花相撲というものの存在を知った。そしてこれが、取組表やポスター、挨拶状などで、自分がお手伝いしていかなければならないイベントであることも。

 以来私は、これまでの43年間に150人以上の力士の引退行事とも関わってきた。チケットやプログラムなど当面の印刷物はもちろんのこと、案内状からお礼状まで。さらに加えて相撲部屋の創立記念パーティや、愛弟子たちの昇進披露や結婚式等々。長年そんな仕事を受け、見よう見真似で必死にこなしていった。そうこうしているうちに、相撲界ならではの言葉づかいやノウハウのようなものも覚え、文面の相談を受けたり、アドバイスのようなことをさせてもらうようにもなった。

 現役関取衆とは、仕事上ふだんほとんど接点はない私たちだが、引退前後から印刷室を訪れるようになった親方衆と親しく口をきくようになるのが例である。

 昭和の大横綱、北の湖親方とも、昭和60年国技館が両国に移った年の9月場所後の引退相撲の仕事がきっかけで、掛け合いの冗談も言わせてもらう間柄となった。

印刷室での将棋口合戦

 当時、本場所の裏では大変な将棋ブーム(昭和60年~平成元年)。親方衆から行司や呼出しの裏方さんまでが、時間を見つけては、各部署で「対局」を行っていた。見物のメガネ(=望遠鏡。相撲界の隠語で覗き見すること)族も大勢。印刷室も同様で、腕自慢が次々と訪れては、下手な私を相手にビシビシ決めて、気分よく自分の職場に帰って行った。

 若き日の北の湖親方は記者クラブ担当だったが、クラブ室の喫煙が嫌で(ヘビースモーカーが多く、昔は紫煙がもうもうと立ち込めていた……)、よく印刷場に来室。私の将棋にメガネをかけては、アーだ、チャ―だ、なんでそんな手を指すんだと、まあ、うるさいこと(メガネをかける人は大半が弱い人びいき……)。私は「親方は背中の上から大局で眺めてんだから偉そうに言えるの! 私は目の前のことで必死なの!」と言い返したことだった。

 そんな将棋が縁で親しくなり、親方の部屋で北の湖の名入りの豪華版な将棋盤で対局させてもいただいた。また、気の合った数人で旅行を計画、3年間積立貯金をし、伊豆の修善寺や下田温泉に行ったことも。

 そういうお付き合いを通じて親方が、学生時代の不勉強(!?)を取り戻すかのように歴史書を読みまくるなど、隠れた勉強家であることも知った。相撲協会の将来を真剣に考える一方、大横綱のてらいなどみじんもなく私に接してくださった親方が、理事長在職のまま、志半ばで亡くななられたことは、本当に残念でならない。花のニッパチ組の方々は今年65歳。親方がもしも存命だったらこの夏場所が停年だった(昭和28年5月16日生まれ)……。停年記念裏方場所?! にはあの立派な将棋盤を持ってきていただいて、印刷室で一局挑戦させてほしかったなあ、と振り返るこの頃である

語り部=河井徹雄(㈱島印刷社長)

月刊『相撲』平成30年7月号掲載 

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