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2020-07-14

【私の“奇跡の一枚” 連載78】 初めて挑戦した横書き大看板字

私は小学1年生のとき墨田区に居を定めて以来、隅田川のほとり、蔵前国技館の櫓太鼓の聞こえる地で育った。当然のように相撲好きになり、国技館に足しげく通った。力士のサインをもらうのに最適の時間や場所を見つけ出したりして、いつかいわゆるオタク以上の存在として知られるようになっていた。

※写真上=この写真の字を今から見れば、注文をつけたいところばかりである。たとえばひらがなの「の」はもっと小さく書くべきだし、下の行の字を見ても等分に書けばそれでいいというものでもないということが分かる。まして横書き相撲字のコツは、いわく言いがたし……。残念ながら秋巡業中だったため、私はこの会には出席できなかった
写真:月刊相撲

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

オタクの晴れ舞台を相撲字のプロとして

 中学生ながらこまめな取材、情報で知られる本誌を愛読、投稿なども。そうこうしているうちに、社会で名を成しながら、相撲関係の著書を持つなどしている、いわゆる好角家の集まり『相撲趣味の会』を知り、その末席会員にも加えさせていただいていた。

 そんなこともあって、今でも本誌のバックナンバーをくくり、自分なりに“史実”を確かめる癖もついている。

 中学3年になると、大相撲に対する憧れはいよいよ募り、当時部屋を作ったったばかりの峰崎親方(元幕内三杉磯)に直訴して、「卒業したらウチへ来い」という言葉をもらい、平成2(1990)年3月、この世界に飛び込むことになったわけである。

 それから夢中の8年、幕下に上がったばかりの私に、名誉な大仕事が回ってきた。『相撲趣味の会』が創立50周年を迎え、併せて600回の例会を盛大に祝うパーティが催されることになり、私がタイトルの大看板を書かせていただくことになったのだ。これが評論家の小島貞二氏を始め相撲記者クラブのお歴々が集まる席を飾るんだと思うと、板番付以上に緊張を要した。

 恥ずかしながら、ここに掲げたのがそのときの横書き作品!?で、平成10年11月号の「角界フラッシュ」で紹介していただいたものである。

 部屋の稽古場を借り、そこに大きな紙を広げて、プロの人間として恥ずかしくない字を書こうと懸命に取り組んだ(つもり)。

 我々行司が日々修業している番付等に使われる相撲字は、楷書に思いっ切り肉付けをして、筋骨隆々の力士が狭い土俵で押し合い、へし合いしている様子をも思わせるように書くものとされている。この頃の私は板番付や「顔触れ」の字はそれなりに書けるようになっていたはずだったが、これは難しかった。相撲字は伝統的に、縦書き表現の中で工夫されてきた文字なので、単に字を横に並べるだけではさまにならないのである。

 20年後の今、私は現在星取表係として、それこそ力士名を横に書く仕事にも携わっているが、横書き相撲字との格闘はいまだに終わっていない。近年私が、東北被災地のお店の看板を揮毫したことを新聞で取り上げていただいたが、それはどうにかかたちになっていたと思う。それも、本誌にこの仕事が、小さいながらも記録されていたからこそ。私は時折バックナンバーを覗いて記憶の確認、反省、工夫のよすがとしているが、この写真は私にとってまさに過去の修業の一里塚。未熟は未熟なりに、時折覗く私を厳しく励ます材料になってくれているのである――。 

語り部=木村銀治郎(幕内格行司)

月刊『相撲』平成30年6月号掲載 

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