そのお腹の子どもが元気な産声を上げたのは、その翌年の1月20日のことだった。男の子で、名前はいかにも力士の子どもらしく「勝」。今の若花田(のち横綱3代若乃花)である。
※写真上=昭和47年秋場所後、輪島(右、のち横綱)とともに大関昇進を果たした
写真:月刊相撲
果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。
【前回のあらすじ】昭和45年秋場所14日目、二人の結婚がマスコミに漏れて1週間後、師匠・二子山親方は自ら走り回って二人の婚約発表を演出。その月内には結婚式まで挙げさせた。秋場所の活躍に二人の結婚を許したかたちに見えたが、すでにこのとき憲子夫人が妊娠6カ月だったことに本当の理由があった――
ちょうどこのとき、20歳でパパになった貴ノ花は、思いもかけない悲運に遭遇していた。三役に定着して3場所目、昭和46(1971)年初場所は、2日目に大関前の山、3日目にも横綱北の富士(現NHK解説者)を破って快調なスタートを切った。
ところが、5日目の大鵬戦で巨体を浴びせられて重ねもちとなり、右足のヒザが曲がったままで抜け切らず、ヒザ関節を痛めてしまったのだ。
すぐさま救急車で病院に運び込まれ、手当を受けたが、「関節挫傷」で患部をギプスで固定され、翌日から休場の憂き目に。
また平幕からやり直し。果たして次の春場所までに、このケガはちゃんと治るのか。どこを向いても不安材料だらけ。たった一日で貴ノ花の順風満帆だった生活は暗転した。
そんな精神的にどん底に落ち込んでいるときに、入院していた憲子夫人の出産の報が届いたのだ。男親にとって、生まれたばかりの子どもとの初対面は、いつも革命的だ。不慣れな松葉杖をついて大急ぎで病院に駆け付けた貴ノ花は、自分のこれまでの人生観が大きく変わっていくのを感じた。
「子どもの顔を見て、まずこの子のためにも頑張らなきゃ。こんなケガなんかに負けちゃいられない、と真っ先に思ったですね。と同時に、自分はまだ若くて、父親として子どもにどう接していったらいいのか、よく分からなかったものですから。力士でいる以上、自分が勝てば家庭の生活もよくなる。でも、相撲にさえ勝ったらそれでいいのか、子どもを育てる上で、もっと大切なものがあるんじゃないか、と真剣に考えました。とにかく、それは今まで想像もしなかった経験でしたよ」
と、藤島親方(当時、元大関貴ノ花)はこの21年前の衝撃の一瞬を語る。
この父親としての自覚が、いつもひたむきで、ときには悲愴にすら見える「貴ノ花相撲」を定着するきっかけになった。
たとえば、軽量で身が軽かった貴ノ花は、立ち合いに思い切って横に飛ぶとかの変化をしたら、もっと勝ち星も増え、あるいは横綱になるチャンスもつかんだかもしれない。(続)
PROFILE
貴ノ花利彰◎本名・花田満。昭和25年2月19日、青森県弘前市出身。二子山部屋。182cm106kg。昭和40年夏場所、本名の花田で初土俵。43年春場所新十両、同年九州場所新入幕。44年夏場所、貴ノ花に改名。47年秋場所後、大関昇進。幕内通算70場所、578勝406敗58休。優勝2回、殊勲賞3回、敢闘賞2回、技能賞4回。56年初場所に引退し、年寄鳴戸を襲名。同年12月、藤島へ名跡変更、57年2月、藤島部屋を創設、横綱貴乃花、若乃花、大関貴ノ浪、関脇安芸乃島、貴闘力らを育てた。平成5年、二子山と名跡交換、16年2月、二男貴乃花に部屋を譲った。平成17年5月30日没、55歳。
『VANVAN相撲界』平成4年9月号掲載
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