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2020-03-20

【連載 名力士たちの『開眼』】 大関・清國勝雄編 残暑の厳しい稽古場で遭遇した人生の指針[その3]

 一緒に新しい廻しを締め、力士のスタートを切った同期生には、幼なじみのような、一種独特の懐かしさがある。清國が前相撲で勝った大鵬に追い抜かれたのは、番付に四股名が載ってわずか2場所目の昭和32(1957)年春場所のことだった。それからはドンドン水が開く一方。清國が待望の十両昇進を果たしたとき、大鵬はすでに横綱になって1年半経ち、優勝回数も11回。清國が入幕したときはもう大横綱の名を欲しいままにしていた。

※写真上=入幕後、上位進出を目指して稽古に励む清國
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】弟弟子の淺瀬川に追い越され、1場所でも早く反撃したいと悶々としていた昭和37年秋場所前。出稽古に来ていた若二瀬を、頭から突っ込む立ち合いでひっくり返した。それは突然、目の前を深々と覆っていた霧が晴れ、待望の出口を見つけたような思いだった。稽古に励み、3場所後には淺瀬川に追い付き、追い抜いた――

本場所で知った偉大な同期生の真意

 ところが、この偉大な同期生は格下の清國のことをいつも気にかけ、気軽に声を掛けてくるのだ。幕下時代はよく飲みに誘われた。若くして出世した大鵬にとって清國は、友人の胸襟を開き気楽に飲める、数少ない一人だったのである。

 清國がこの恩人のような大鵬と初めて幕内で顔が合ったのは、入幕3場所目の39年春場所4日目のことだった。この前の初場所、清國は東の13枚目で、初日から14連勝というものすごい離れワザを演じて、一躍、若手のホープとして名乗りをあげている。優勝したのは全勝の大鵬。もし、清國が千秋楽の大豪戦(元関脇、花籠部屋)に勝てば、同期生同士の全勝決定戦が実現するところだったのだ。

 しかし、清國はこの大豪戦で急にこれまで感じなかったプレッシャーを感じて完敗し、みんなが心待ちにしていた夢の対決はとうとうお預けに。とはいえこの春場所、清國は一気に関脇まで駆け上がり、2人の対決はいよいよ待ったなしという状況になっていた。初の三役ということもあって、清國はなかなか胸の高鳴りを抑えることができなかった。

 場所前、そんな清國に小さな異変が起こった。大鵬から「朝稽古に来いよ」という誘いの電話が頻繁に入るようになったのだ。

「オイ、また横綱が出て来いってよ、ありがてえじゃないか。やっぱり同期ということでお前に目を掛けてくれてるんだよ。さあ、こっちはいいから横綱のところに行って来い」

 ニコニコ顔の師匠に背中を押されるようにして二所ノ関部屋の稽古場に駆け付けると、

「やあ、よく来てくれたな、さあ、来い」

 待ち構えていた大鵬に胸を出されてコテンパンにのされる。そんなことがそれこそしょっちゅう。大鵬の親切の真意がどこにあったのか。4日目の対戦のとき、清國は痛感することになる。

 立ち上がった瞬間、清國は場所前の出稽古で、大鵬に自分の弱点を徹底的に研究されたことを知ったのだ。もちろん、勝負は先に右上手をがっちり取られて完敗。しかも、清國の悲劇はこのときだけにとどまらず、その後も大鵬のなすがまま。なんと不戦勝一つをはさんで10連敗もさせられたのである。(続)

PROFILE
清國勝雄◎本名・佐藤忠雄。昭和16年11月20日、秋田県湯沢市出身。荒磯→伊勢ケ濱部屋。182cm134kg。昭和31年秋場所、若い國で初土俵。37年初場所梅ノ里、同年夏場所清國に改名。38年夏場所、新十両。同年九州場所新入幕。最高位大関。幕内通算62場所、506勝384敗31休。優勝1回、殊勲賞3回、技能賞4回。49年初場所に引退し、年寄楯山を襲名。52年、伊勢ケ濱部屋を継承し、幕内若瀬川らを育てた。平成18年11月、若藤に名跡交換後、停年退職。

『VANVAN相撲界』平成7年4月号掲載

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