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2020-03-06

【連載 名力士たちの『開眼』】 大関・清國勝雄編 残暑の厳しい稽古場で遭遇した人生の指針[その1]

――インクの匂いがする真新しい番付を広げ、つぶっていた目をそっと開けてみる。いいときはいいときなりに、悪いときは悪いときなりに胸の高鳴りを抑えきれない一瞬だ。しかし、今場所は目を開けるのに勇気が要った。

※写真上=同郷出身の伊勢ケ濱親方(右から二番目、当時荒磯、元横綱照國)に誘われ、入門を決意した中学3年の清國(右端)
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

弟弟子に追い越され悶々とする日々

 東の横綱は、6年前の昭和31(1956)年秋場所に初土俵を一緒に踏み、しかもこのときの前相撲で打っ棄って勝った大鵬。これはもう致し方がない。なんといっても持って生まれた器が違うのだから。しかし、自分が這い上がろうともがいている十両には、見たくない四股名が載っている。1年もあとから入門してきた弟弟子の淺瀬川(最高位前頭筆頭、伊勢ヶ濱部屋)だ。

 ――クソッ。やっぱりオレは力士としちゃダメってことなのか。思い切って廃業したほうがいいのかも。でもこのままじゃやめるにやめられないよ。

 清國(初土俵の昭和31年秋場所の四股名は若い國。梅ノ里を経て37年夏場所、清國と改名。ここでは便宜上、清國で統一)は6年余りの力士生活ですっかり節くれだった手をじっと見詰め、小さくため息をついた。自分が急に小さくなったような気がした。この6年間無為に流した汗のしょっぱさが、口の中にこみ上げてきた。やたらに寂しい。まだ20歳の清國は、どうやってこの絶望の淵から立ち直ったらいいのかよく分からない。小さな胸を期待に震わせて入門した日のことがひどく遠い昔のことのように感じられた。

 清國が同郷の秋田県雄勝郡雄勝町(現湯沢市雄勝町)出身の伊勢ケ濱親方(先代、元横綱照國)に誘われ、一緒に上京したのは31年、中学3年の夏休みのことである。両国の荒磯部屋(のち伊勢ケ濱)に着いたのは、ちょうどそばを流れる隅田川の川開きの夜。東京の右も左も分からない清國は、ヒュルー、ヒュルーと夜空に打ち上げられる花火のはかない供養を部屋の窓から見上げているうちにだんだん心細くなり、なぜこんなところに来ちゃったのだろうと悲しくなった。なりは大きくてもまだ子どもだった。

 それまで、相撲なんか嫌いで取ったこともなかった清國にとって、早朝からの稽古も想像していた以上につらいものだった。どこか逃げ腰だから、なかなか身が入らない。前相撲で勝った同期の大鵬にあっという間に追い抜かれ、21歳3カ月という史上最年少で横綱に昇進したとき(現在は北の湖の21歳2カ月に次いで2位)も、まだはるか下の幕下で低迷していた。

 後年、真面目力士の代表のように言われて稽古熱心で売った清國だったが、このころのニックネームは“運ちゃん”。タクシーの運転手は24時間勤務で、次の24時間は“明け”になる。当時の清國も、一日稽古すると翌日は、ここが痛い、あそこがかゆいと言って稽古場を逃げ出すことから、こう呼ばれたのである。

 しかも、相撲っぷりがおよそ理にかなっていなかった。投げの魅力にとりつかれ、何がなんでも上手を取って相手をぶん投げないと気がすまなかったのだ。これでは勝ち星はあがらない。

 清國は幕下に実に4年半、26場所もいた。十両が目の前の10枚目以内だけで36年初場所から38年春場所まで2年ちょっと、14場所も。弟弟子の淺瀬川に追い抜かれたのは37年名古屋場所のことだが、こんな独りよがりの荒っぽい相撲を取っているかぎり、いずれ後塵を拝することになるのは明らかだった。しかし、清國にとっては、こんな屈辱はない。

 ――このままアイツに抜かれっぱなしというのはイヤだ。なんとか反撃しないと。それも一場所でも早く。でも、どうやったらそうできるんだろうか。

 急速に力をつけ、自分を追い越していった淺瀬川の丸い背中を見詰めながら、悶々とする日が続いた。(続)

PROFILE
清國勝雄◎本名・佐藤忠雄。昭和16年11月20日、秋田県湯沢市出身。荒磯→伊勢ケ濱部屋。182cm134kg。昭和31年秋場所、若い國で初土俵。37年初場所梅ノ里、同年夏場所清國に改名。38年夏場所、新十両。同年九州場所新入幕。最高位大関。幕内通算62場所、506勝384敗31休。優勝1回、殊勲賞3回、技能賞4回。49年初場所に引退し、年寄楯山を襲名。52年、伊勢ケ濱部屋を継承し、幕内若瀬川らを育てた。平成18年11月、若藤に名跡交換後、停年退職。

『VANVAN相撲界』平成7年4月号掲載

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