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2020-02-21

【連載 名力士たちの『開眼』】 関脇・魁輝薫秀編 凡才でも努力と工夫で天才に勝てる[その3]

初顔合わせでギャフンといわされて以来、魁輝の脳裏にはいつも北の湖が息づいていたと言っていい。

※写真上=小部屋育ちながら敢闘賞を受賞したことで、自信を付けていた幕内時代
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】小部屋育ちの悲哀をイヤというほど味わっていた幕下時代を経て、スロー出世で幕内に昇進。新入幕から数えて22場所目の昭和54年夏場所、東の5枚目で二ケタの10勝を挙げ、待望の小結に昇進した。しかもこの場所、千秋楽に勝ち越しを決め初の敢闘賞を受賞。小部屋育ちが歓喜の涙を流した――

打倒北の湖のための頭脳作戦

 あっという間に北の湖は上にいってしまい、2人の間の水は開く一方だったが、新しい番付を広げるたびに、魁輝はまず自分の四股名を探し、その次にこの両国中学の1年後輩の四股名を探すのが決まりだった。それほどこの北の湖から魁輝に残した印象は大きかったのである。

 魁輝が再びこの天才と相まみえるようになるまでには、9年の歳月を要した。2度目の対戦は昭和52(1977)年夏場所。このとき、北の湖はすでに横綱に昇進して4年目で、この年から5年連続して「年間最多勝力士」になるなど、ちょうどワンマン時代を築きつつあるときだった。

 もちろん、この幕内初対決でも、魁輝は北の湖の敵ではなかった。こうしてさらに2年が過ぎ、この間に魁輝は北の湖に4回挑戦し、4回ともものの見事にハネ飛ばされている。この4回目の対戦は54年夏場所3日目。魁輝が新小結で見事勝ち越し、涙の敢闘賞を受賞した場所のことである。

「こっちはいつも目いっぱい行ってるのに、あの横綱にかかるとまるで子ども扱いだ。どうせまともに行っても勝てないんだから、立ち合いに思い切って変わってやろうか」

 魁輝は、たまたま隣に開荷を広げていた稽古仲間の黒姫山にこうぼやいていた。すると、53年九州場所、54年初場所と2場所続けてこの無敵の北の湖から金星をもぎ取ったことがある黒姫山はニヤッとして、

「ちょっと待て。まだ変わるのは早すぎる。いいか。今場所までは真っすぐ突っ込んでいくんだ。そして、変わるのはこの次だ」

 とこの奇襲作戦にストップをかけた。北の湖は体が大きな割に器用で、しかも用心深い。この大物を仕留めるにはとても一筋縄ではいかないことを、北の湖キラーの黒姫山は熟知していたのである。

 かくて、この場所の魁輝は、黒姫山のアドバイスを守って、またまた真っ向から当たって完敗し、そのうえ、次の名古屋場所前も、北の湖にハネ飛ばされるために三保ケ関部屋の稽古場に3日間も通った。“正直者”のイメージ作りのダメを押すためである。人間、ここまで用意周到にやられては、北の湖ならずともたまったものではない。(続)

PROFILE
魁輝薫秀◎本名・西野政章。昭和27年6月24日、青森県上北郡七戸町出身。友綱部屋。182cm148kg。昭和40年秋場所、本名の西野で初土俵。48年春場所、西錦に改名。同年秋場所新十両。50年名古屋場所、魁輝に改名。同年九州場所新入幕。最高位関脇。幕内通算66場所、446勝522敗22休。敢闘賞1回。62年春場所に引退し、年寄高島を襲名。平成元年、友綱部屋を継承し、大関魁皇らを育てた。29年6月、大島に名跡変更、部屋を元旭天鵬に譲った。

『VANVAN相撲界』平成6年8月号掲載

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