close

2026-07-17

「アリ戦後の第1戦」でアントニオ猪木が「新殺法の蹴り」に込めた意地【プロレス史あの日、あの時1976年7月9日/週刊プロレス】

「プロレス」1976年8月号に掲載された7・9後楽園大会のリポート(週刊プロレスmobileプレミアムで配信中)

全ての画像を見る
1976年7月9日
「アジア・リーグ戦」開幕戦◎アントニオ猪木&木戸修vsゴーディ・シン&ガマ・シン@後楽園ホール
 
50年前の「猪木・アリ戦」については多くの書物、記事が残されているが、その2週間後、アントニオ猪木が「アリ戦のあと、プロレスに復帰したシリーズ」について言及された記事は少ない。その大半は「アリ戦で売り興行の割合が減り、実際に多くの地方興行がキャンセルされた」というネガティブなものだが、当該の「アジア・リーグ戦」は7月9日の開幕で8月5日の最終戦(蔵前国技館)までの28日の期間に25興行が開催されており、「キャンセルされた興行」など全く存在していない。要するに、アリ戦で不評を買った猪木に対する「いやがらせ」、「フェイクニュース」の横行だったのだが、当の猪木は「言いたい奴には言わせておけ」とばかり受け流していた。開幕戦の後楽園ホールには、東南アジア、中近東で最大のプロモーターであるサリム・サディク氏の姿があった。サディク氏は猪木・アリ戦を宇宙中継で見て猪木に大きな関心を持ち、この日の来日となったもの。サディク氏の来日によって猪木・新間ラインとの交渉が始まり、12月のパキスタン遠征(アクラム・ペールワン戦)に繋がったわけだが、とにかく猪木の辞書には「あとを振り返る」という文字はない。このあと、アクラム戦のみならず世界中から招聘オファーが舞い込んだが、全てはアリ戦を実現した効果だった。「格闘技世界一決定戦」という壮大なバナーをアリ戦で終えることなく、継続を可能にした貢献度という観点からも、アリと同じ敬虔なイスラム教信者であったサディク氏のオファーは、猪木のキャリアに貴重な役割を果たしたと思う。

リング上においても、この日の観客を驚かせる「新技」を披露した。この夜は生中継だったので、私はテレビの前で「久しぶりの卍固め」、あるいは「久しぶりのジャーマン」を期待した。3月20日にアリ戦が決まってからはビッグマッチがなく、春の本場所でもある「ワールドリーグ戦」はリーグ公式戦辞退、続く「ゴールデン・ファイト・シリーズ」でも最初の4興行のみ出場、残り13興行は欠場だっただけに、この夜は「本格的なカムバック」を記念して豪快な必殺技の復活が見たかったのだが、ここで猪木は私の期待を「意外な形で」裏切ってくれた。試合開始早々、木戸からのタッチを受けた猪木は、ガマ・シン相手に鮮やかなスライディング・キック(この段階ではアリ・キックという呼称はされていない)。アリ戦が「世紀の凡戦」と酷評された最大の要因は、「猪木が終始、寝転んでローキックに固執したこと」という声が大きかったので、おそらく猪木はその「悪夢のような」ローキック攻撃を封印するだろう…という「思いこみ」があったのだが、復帰第1戦で「悪夢を振り払うように」ローキックを出していった。その「開き直り」に驚くと共に、この動きの中に猪木の反骨心が凝縮されていたことにも感動した。「寝そべっていたから凡戦だっただと? ふざけるな! 寝そべらずに闘える相手じゃなかったんだよ、バーカ! 普通のプロレスラー相手にあのキックを使ったら、どういうことになるか、見せてやるよ!」とでも言いたげな凄いローキック連発に、猪木の意地を見た。

奇しくもこの日、アリは猪木に蹴られた左脚に血栓症を発症して、シカゴの病院に入院。猪木から受けたスライディング・キックの威力が壮絶だったことが改めて証明されている。

猪木・アリ戦の翌日、「茶番劇」とか「世紀の大凡戦」と書いたスポーツ新聞が大多数だったが、50年前のこの後楽園大会は、猪木の大逆襲劇の始まりだったとも言える。

流 智美

PICK UP注目の記事

PICK UP注目の記事



RELATED関連する記事