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2019-08-13

私の“奇跡の一枚” 連載28 『さよなら蔵前国技館』のペンライト

国技館のある墨田区の夜空を見上げると、世界一高い電波塔、東京スカイツリーのイルミネーションが美しく輝いている。その点滅を見るとき私は時折、昭和59(1984)年秋場所千秋楽、観客席がペンライトに揺れたサヨナラ蔵前国技館の光景を懐かしく思い出す。

※写真上=昭和59年9月23日のお別れセレモニー。「蛍の光」が流れるなかペンライトが揺れた
写真:相撲博物館

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

次代へ明るいステップ

 それは相撲界にとってまさに時代の転換点を象徴する光景だった。

 蔵前の昔を知る人々にとって、その苦難から栄光への歴史はもちろん、国技館が醸しだしていたムードはいとおしく懐かしい。

 飛行機の格納庫を基礎とした長方形の建物。大屋根にむき出しになった鉄骨。焼き鳥の煙と香り。お城の楼門を意識した正面入り口とその2階にあった相撲博物館。力士たちが窓を開けたら外からも中の様子をうかがえた裏の支度部屋。『相撲食堂』のラーメン、カレーライスの素朴な味わい。

 相撲がはねた後、車両通行止めになった蔵前通りに広がり散っていった大観衆……。

歴史の中に身をおけた幸せ

 私が相撲協会の博物館に入ったのは昭和44年4月、ちょうど柏戸、大鵬の晩年、北の富士・玉の海時代へ移る境目のころだった。

 当時はパソコンは無論のこと、コピー、ファクスさえなかった手作業の時代。私は毎日、史料の整理に追われ、記録の作成(博物館は今の広報のような役目も任されていた)ほかの雑務などで、事務所を手伝うこともしばしば。しかしこのことが後の私の仕事の基礎をつくってくれた。

 一例を挙げれば、大地図や地名辞典等を活用しての力士の出身地を一つひとつ確認するといった作業。私はどんな仕事にも無駄なことはないと考え、その一つひとつを、誠実にこなすことに努めた。

 そんな中で世間を広げてくれたのは博物館の歴代の館長の指導であり、そこに訪ねて来られる個性豊かな横審の先生など世の一流と言われた方々のお話だった。

 市川國一館長(4代武蔵川理事長。元幕内出羽ノ花)は、親方衆や関取衆からひどくこわがられていたが、私たちには優しい人だった。とにかく博学で、あらゆることに通じておられ、時折話してくださる戦後の動乱期の進駐軍と身をもって折衝した様子など、ほんとうに迫力があった(その様子は『武蔵川回顧録』=ベースボール・マガジン社=に詳しい)。

 沈着冷静にして剛毅果断の経営者の鑑のようなこの方がいてこそ、相撲界がここまで来られたんだなと思ったことも数知れない。

 蔵前国技館は栃若をはじめとして柏鵬、北玉、輪湖、千代の富士と多くの英雄を出しながら、戦後の復興・発展の応援歌となり、高度成長の活力ともなってきた。そしてその陰には相撲を愛し力を尽くした大勢の人々の存在があった。

 蔵前国技館の中身の濃い歴史の中に身をおいていた私にとって、あの「蛍の光」のペンライトは先人に感謝して川面に浮かべられた灯篭流しだった。そして次の国技館につなぐ希望のメッセージでもあったのだ。

語り部=鈴木綾子(元日本相撲協会広報室長。平成26年1月停年退職)

月刊『相撲』平成26年5月号掲載

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