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2026-10-16

新日本初のテレビ中継を実現させた「番外地」東京12チャンネルの快挙【プロレス史あの日、あの時1972年10月4日&10日/週刊プロレス】

1972年10月4日、新日本・蔵前でおこなわれたゴッチvs猪木を報じた「プロレス」1972年11月号(週刊プロレスmobileプレミアムで配信中)

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1972年10月4日&10日
世界ヘビー級選手権試合◎カール・ゴッチvsアントニオ猪木(2連戦)@蔵前国技館&大阪府立体育会館
 
1972年(昭和47年)3月6日、大田区体育館で旗揚げした新日本プロレスは、それから1年後の73年4月6日、NETテレビ(現・テレビ朝日)が毎週金曜日の定期放送(「ワールドプロレスリング」)を始めるまで、ノーテレビで窮地を凌いでいた。国内には、ほかに日本プロレス、国際プロレス、全日本プロレスが存在して、それぞれNET、TBS、日本テレビが毎週放送していた時期なので新日本の容易な参入は望むべくもなかったが、猪木は旗揚げ初のビッグマッチ、蔵前国技館(10月4日)開催にあたって、放送嘆願を期して、自ら東京12チャンネル(現・テレビ東京)に赴いた。そのときに猪木を迎えた田中元和(たなか・げんな)氏(その後、1974年からは国際プロレスアワーのチーフ・ディレクターとして活躍、現在82歳)は、その様子を次のように述懐する。

「ウチは昭和43年(1968年)から「プロレスアワー」というアメリカのプロレス名勝負を録画で流す1時間番組を持っていて、それがたまたま(1972年の)9月いっぱいで終わることが決まっていたタイミングでした。私の上司である白石剛達運動部長に、猪木さん本人から電話があったのはお盆過ぎあたりのことで、部長と私が局の応接室で面談しました。東京タワーにウチの本社機構があった時期です。猪木さんは一人で来ましたね。部長に、『10月にカール・ゴッチと世界戦をやるので、12チャンネルさんに放送して頂きたい』と頭を下げたので、部長も私も恐縮しました。白石部長は(1964年の)東京オリンピックの日本レスリングチームを総括するコーチだったこともあるし、八田一朗先生の愛弟子。猪木さんに頭を下げられたら、断るわけにはいかない。猪木さんは向こうから『放送料は、お任せします。とにかく、ウチは3月に旗揚げしてから一回もテレビで放送されたことがないので、この機会に私の試合を是非、電波に乗せたいのです』と熱っぽく語りました。民放5局が、『3強1弱1番外地』と呼ばれていた時代ですよ。もちろん、ウチが『1番外地』です。白石さんは即答でOKを出しました。猪木さんが『放送料は、白紙委任いたします』と言ったのに男気を感じましたね。ほかの民放局と天秤にかけるようなことをしなかった。その時期はフジテレビだけがプロレスをやっていなかったですが、『フジテレビさんにも、お話をしているのですか?』などというヤボな質問もしませんでした。猪木さんも部長も、カッコ良かったです。話は3分くらいで終わって、あとは半年前にウチが独占生中継した日本初登場のモハメド・アリ(当時はカシアス・クレイ)対マック・フォスター戦の裏話をしていました」

東京12チャンネルの大英断は、その後に歴史を大きく変えた。第1戦の10月4日は22時30分からのディレイ中継(ノーカット)で、視聴率8.8%。第2戦の10月10日(大阪府立体育会館)は11月6日に8時から9時のゴールデン枠で録画中継して、11.9%と健闘した。この2連戦をリングサイドで観戦した東京スポーツの井上博社長が、「これからの日本のプロレスは猪木だ」と判断し、紙面を猪木中心にするよう指示。翌73年に東京スポーツ主催興行の世界最強タッグ戦(猪木&坂口対テーズ&ゴッチ)、74年3月には猪木対小林(国際に1000万円を払って小林の身柄を確保)を実現させ、一気に猪木黄金時代の到来をバックアップ。今思うと、すべては本稿の「東京12チャンネル単発放送」がファースト・プッシュとなった「ドミノ倒し」だった感を強くする。

流 智美

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