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2026-10-07

【アイスホッケー】平成初期の釧路、そしてアイスホッケー・マガジン

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中央大学の1993年度生と当時のスタッフ。前列右から米内さん、真田部長、三橋さん、根城さん、山本元監督。後列右から山際コーチ、石澤さん、鶴巻さん、島崎さん、廣内さん、小山コーチ(写真提供・石澤文吾)

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「愛情いっぱいのショッピング」。
平成初期、釧路の幸せのスタイル。

 僕が大学に入ったのは「昭和」で、卒業したのは「平成」だった。時代の移り変わりはスポーツの世界も同様で、平成初期のアイスホッケーは、年が変わるたびに競技人口と人気の高まりが継続していく。そして1991年の6月、7年後の1998年の「長野オリンピック開催」が正式に決まったのだった。

 釧路と苫小牧に卒業旅行に出かけたのは、1991年の2月だった。プレーヤーとしては「そのへんの選手」だったので、インカレはもちろん、無縁。就職する前に「日本のアイスホッケーの都」を一度、訪れてみたい。そう思ったのだ。

 初めて足を踏み入れた釧路は、ちょっとした大都市だった。通学ラッシュでは釧路駅、くしろバスのターミナルが「高校生だらけ」。ステーションデパート、長崎屋、中田スポーツ、山下書店…。北大通はもちろん、駅の北口にも人の波が続いていた。駅前で売っていた「甘太郎」を食べながら、駅北口から徒歩10秒の古本屋で買った雑誌をホテルで読みふける。1975年に創刊したアイスホッケー・マガジンの第1号。釧路らしい「掘り出し物」だった。

 翌日は市内を歩いて回った。朝、釧路工高のグラウンドを柵越しに見学。コンテナの貨車にペンキで「アイスホッケー部」と書いてある。うん、工業高校らしい。そこから5分歩いて釧路短大附属高(当時)へ。9時を回って授業はとっくに始まっているのに、近くのバス停から「タツノオトシゴ」のような髪型の男子が走ってくる。これが噂の「タンプ」BOYSか。春採で行われた、1984年のインターハイ決勝。短附と工業の試合をNHKが全国中継したときに見た、全校応援の「ビー・バップ」な情景がよみがえってくる。

 午後は、当時アウトリンクだった柳町へ。雪印の高橋勝君がOBの釧路北高が、降りしきる雪の中で新チームの練習をしていた。そこから十條リンクへ向かって歩いていく。中に入ると、小学生が練習中。ユニフォームの胸には「十條製紙」のマークだ。このチームは十條ジュニアで、エリート少年の「虎の穴」。リンクの玄関にずらり並べられた選手の名札が、やけに神々しく見えたのだった。

 隣にある総合スーパー「十條サービスセンター」に行ってみる。入口から右手にあるのが「ジョイパックチキン」、左の奥にあるのが「佐藤スポーツ」だ。スティック、スケート、グローブ、パンツ、ショルダー、エルボー、シンガード。当時、これほどの広さを備えたお店は、全国的にも珍しかった。

 そこから鳥取中学校へと向かう。日本リーグのスーパースター・鈴木宣夫さん、矢島敏幸さん、果ては大将の引木孝夫さん(いずれも王子製紙FW)。幾多の名選手が育った「外リンク」を見てみたかったのだ。訪れたのは夕飯の時間帯で、鳥中の生徒、先生は学校の中にはいなかった(と思う)。こっそりリンクの中を歩いて1周したのは、ここだけの秘密にしておこう。

 最後のミッションは、鳥取スポーツセンターを見ることだった。鳥取神社のすぐ裏手にある、屋内の施設。通年ではないものの、釧路では初のインドアリンクだ。

 スポーツセンターで1ピリだけ「おじさんホッケー」を見て、最終バスでホテルに戻った。この日は結構な雪が降っていて、寒さに慣れていない身としては大変だったが、初めて訪れる釧路で、これでもかというくらい「ホッケーの生命力」を感じることができた。なんというか、とても幸せな気分だったのだ。

 吹雪の中を歩き続けるなかで、自分を勇気づける歌を唄っていた。この日の夕方に覚えたばかりの曲だった。

「愛情いっぱい、幸せショッピング 十條サービスセンター」

 十條サービスセンターは1999年から別の商業施設となり、その後、建物自体が2019年の春に閉鎖されることになった。

 十條製紙、のちの日本製紙クレインズは、アジアリーグで4回、全日本選手権では7回優勝しながら、工場の釧路撤退が廃部の理由になった。これも2019年の春だった。

 昭和の終わりから平成の前半。釧路の街、そして釧路のアイスホッケーが、今よりずっと活気があった。

「愛情いっぱい、幸せショッピング 十條サービスセンター」

 店内に流れる明るい女性のコーラスは、文字通り、あの時代の釧路における「幸せ」の形だった。

この試合ではサブだったが、大学3年生のころの鶴巻さんは、スターターとしてゴールを守ることも多かった(写真提供・石澤文吾)
この試合ではサブだったが、大学3年生のころの鶴巻さんは、スターターとしてゴールを守ることも多かった(写真提供・石澤文吾)
 
鶴巻さんが縁となって得た出会い。
江南OB・石澤さんの見た「釧路」。

 あるメールがアイスホッケー・マガジン宛てに届いた。神奈川・武相高の元監督、鶴巻創介さんの記事を2025-2026シーズン号に掲載していた。それに対して「文中に間違いがある」と指摘してくれたのだ。

 連絡をくれたのは富山の中学の先生・問谷文悟さん。昔からのファンの方は「石澤文悟さん」と言ったほうがわかりやすいだろう。現在は奥さんの姓を名乗っているが、1993年の苫小牧インターハイで釧路江南高が初優勝したときのメンバー。1つ目のFWとして、元コクドの佐曽谷大祐さん、山田(ようだ)博章さんと一緒のセットだった。

 江南を卒業した石澤さんは、中央大学に入学。鶴巻さんとは八王子の寮で一緒に過ごしてきた。記事には「鶴巻さんは大学の4年間、レギュラーになれなかった」と書いたのだが、石澤さんによれば、それは間違いだという。

「創介は、1年生と4年生のときは確かに出ていませんでしたが、2年と3年のときには試合に出ていた時期もあったんです。特に3年生の時はレギュラーでした。創介の名誉のためにも、よろしくお願いします」

 鶴巻さんは、石澤さんのように「仲間」に恵まれていた。当時の思い出を聞いてみる。

「私は父が教員をしていましたので、創介と2人、就職活動をしないで、教員を目指していたんです。北海道の採用試験を受けて、でもダメで…。それから中央大学の寮の近くに、それぞれ部屋を借りて暮らしていたんです」

「創介は真面目ではありましたが、ひょうきんな男でした。ホッケー選手ですから、酒を飲むと、中にはケンカっぱやいヤツもいる。そういうときに、やめろ! と一喝するのは決まって創介でした。身長は185くらいあって、でも普段は優しかった。一緒に過ごす時間は、私が一番、長かったです」

「(2003年の2月に急逝して)最初は本当の話かどうかわからなかった。その2週間前に創介に会っていましたからね。でも、大学の先輩やら後輩やら、いろんな人から電話がかかってきた。ああ、やっぱり本当の話なんだって…。身近な人が亡くなるのは、私にとって初めてでした。当時はまだ27歳か28歳でしたから、ショックも大きかったんです」

 この文の冒頭で「平成前半の釧路」のことを振り返った。というのも、石澤さんの話を聞いているうちに、この時代、この街の「ホッケーの熱」を思い起こさせてくれたからだ。

 工業、短附(緑ケ岡)、そして江南。平成の前半、釧路の3つの高校はどこも50人以上の部員を抱えていて、チームにはそれぞれの「美学」があった。なかでも江南は、本州の中学生にダントツの人気を誇っていた。

 石澤さん、時代が「令和」になって、いまの釧路のアイスホッケーにどんな印象を持っていますか?

「私が江南の1年生の時、3年生にすごい先輩がいて、どことやっても負ける気がしなかったんです。江南は絶対、インターハイで優勝できる。それをずっと信じていました」

「いまは釧路の人口も減ってしまって、子どもの数も減っています。あの当時と比べると、ずいぶん寂しい街になってしまった。ホッケーはどうしても、送り迎えをする親の負担が増えます。そこが難しいと思うんです」

釧路のアイスホッケーの礎「日本製紙クレインズ」は、2019年の3月をもって廃部に(写真)。あれから7年。今季、新しいチーム「北海道グルス」が公式戦でデビューしている釧路のアイスホッケーの礎「日本製紙クレインズ」は、2019年の3月をもって廃部に(写真)。あれから7年。今季、新しいチーム「北海道グルス」が公式戦でデビューしている 

歴史ある「アイスホッケーの都」。
釧路の生命力は、いまだ消えない。

 今シーズンの始め、僕は衝撃から立ち直れなかった。アイスホッケー・マガジンが「休刊」する。うすうす予感めいたものはあったけれど、いざ現実になってみると、受け入れるまでには相応の時間がかかった。

 まずは、自分の力不足を反省したい。本当に、ごめんなさい。

 平成の後期に一度なくなっていたアイスホッケー・マガジンを復活させる。そう信じていたものの、なかなか難しくて、ようやく雑誌が再稼働したのは2012年だった。そのチャレンジも、2025年で終わりを迎えた。

 鶴巻さんのこと、石澤さんのこと。そのほかにも、いろんな取材を続けてきた。記事にするなら、どんな内容がいいだろう。読者の方は、これで満足してくれるだろうか。これまでオフの間は、それをずっと考え続けてきたけれど、もう本は出せなくなった。

 ただ、こうも思うのだ。

「紙」の本はなくなってしまったが、こうして「現場の声」を届けることはできるのではないか。アイスホッケーという競技に対して、僕はまだ絶望していない。いや、一生、絶望はしないだろう。懸命な若者が好きで、関東高校選抜のカナダ遠征で亡くなった鶴巻先生も、きっと理解してくれるはずだ。

 一大応援組織の「紙」から卒業した釧路のアイスホッケーも、同様のことが言えるだろう。時あたかも「北海道グルス」が、今シーズンからXHLに参加している。東京ワイルズとの初戦は1-9、滋賀ブルーライズとの初戦は1-11。あらら、ちっとも甘くないぞ。

 それでもワイルズとの2戦目は3-4。ブルーライズとの2戦目は、エンプティ込みで2-4のスコアだった。選手の多くはアイスホッケーの名門校出身。2日続けて「下手な試合」はしない、ホッケー偏差値とプライドの高さを持ち合わせている。

 北海道グルスの「ビジョン」。クラブのホームページには、こう記されている。

「持続可能なモデルへ」

<私たちは、一時的な盛り上がりではなく、10年後、20年後も存在しているクラブをつくります。大きさよりも「続くこと」。派手さよりも「根付くこと」。その積み重ねの先に、地域にとって、かけがえのない存在が生まれることを信じています>

 北海道グルスにも、いつか応援の「チアソング」ができるだろう。十條サービスセンターに負けないくらいの、新しい時代に合った「幸せ」の形。ホームページに載っているように、どんなことがあっても「続ける」ことが大切なのだ。

 初めて釧路を訪れた日から、もう35年以上が経過した。悠久の時間ただよう、日本の「アイスホッケーの都」。釧路の生命力あふれる姿は、僕の中でまだ消えてはいない。

山口真一

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