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2021-05-07

【連載 名力士ライバル列伝】三重ノ海が語る「我が心のライバルたち」前編

第57代横綱三重ノ海

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無類の闘志と卓越した技で、多士済々の時代を生き抜いた名力士たち。
元三重ノ海の石山五郎氏、元旭國の太田武雄氏、元増位山の澤田昇氏に、名勝負の記憶とともに、しのぎを削った男たちとの思い出を聞いた。

負けん気で目指した綱の地位、救われた友人からの電話

中学を卒業後、東京のアルミ工場への集団就職を経て、地元に戻って新弟子検査を受けたのが昭和38(1963)年の名古屋場所。

私は一度、中1のときに出羽海部屋の松ケ根親方(元関脇羽嶋山)にお会いして「背が低いから、伸びたら手紙でもよこしな」と言われていたのですが、当時もまだ背は足りていませんでしたので(173センチで合格)、頭にたんこぶを作って、ちょっと背伸びして、ようやく174センチにして合格しました(笑)。

測定するのが出羽海の九重親方(元横綱千代の山)だったのも助かりましたが、名古屋場所の時期はちょうど“新弟子枯れ”で、検査も少し甘くなるというのもあったんです。だから、同年代で背の低かった力士は、みんなその名古屋で受かっているんですよ。

その中の一人が旭國でした。入門(立浪部屋)は前年の秋ですが、彼のように、背が足りずに検査を通れず、半年も1年も部屋にいる力士が当時は多かったんです。ただ、稽古だけは積んできていますから相撲は強い。

私は相撲経験がないので教習所でも弱い組に入れられ、旭國ら強い人たちとは一緒に稽古できませんでした。実際、彼は1年で幕下に上がりましたが、私は序二段から上がるのにも2年かかりました。

当時の出羽海部屋は、名門だけに80人を超える大所帯。そこに春日野部屋など一門の力士たちも加わって一つの土俵で稽古をする。下のころは朝4時半に起きて、早く土俵に下りないと満足に稽古もできないし、ちゃんこも、その大人数が一斉に食べるんですから大変な競争です。

ただ、そうした環境がハングリー精神を養ってくれたのは間違いない。左耳がわいて膨らんでいるように、初めは左から当たって左前ミツを取る相撲ばかりでしたが、やはり上手からも使えないとダメだと考え、右上手を取って前に出る、出し投げを打つという相撲を、同門の栃ノ海さんの稽古を見たりしながら一生懸命、覚えていきました。

昔は、5年で幕下に上がれなければ、親方に面倒を見てもらう(自費養成)か、力士をやめるしかなかった。だから、とにかく必死でした。おかげで、4年目に三段目優勝、幕下昇進と結果が出始め、十両へは旭國に追いついて、黒姫山と3人で同時昇進。

稽古場で十両力士に勝てるようになれば「十両に上がれるな」となり、幕内力士に勝てれば「幕内に上がれるな」となる。自分に自信を付けるのも稽古場ならば、相手に自信を与えてしまうのも稽古場。だから稽古場というのは力が抜けないし、本当に大事。そんな負けん気、気持ちの強さがなければ、その後の私もなかったでしょうね。(元横綱三重ノ海=石山五郎氏、続く)

『名力士風雲録』第17号三重ノ海 魁傑 旭國 増位山掲載

初土俵からの出世は旭國(前方)から差がついたが、十両昇進は同じ昭和44年春場所だった
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