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2021-05-28

【連載 名力士ライバル列伝】三重ノ海が語る「我が心のライバルたち」後編

第57代横綱三重ノ海

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無類の闘志と卓越した技で、多士済々の時代を生き抜いた名力士たち。
元三重ノ海の石山五郎氏、元旭國の太田武雄氏、元増位山の澤田昇氏に、名勝負の記憶とともに、しのぎを削った男たちとの思い出を聞いた。

30歳を超えても、やれるんだというところは示せた

新小結の昭和45(1970)年名古屋場所、大鵬さんとの対戦は思い出深いですね。私が入門したころにはすでに横綱。まさか、対戦できるなんて思いもよらなかったですから、顔が合うだけで幸せでした。立ち合い、張り差しにいっていますね(笑)。そこから右出し投げで崩し、さらに左前ミツも引いて頭を付けて一気に出た。勝ったときはもう夢見心地でした。張り差しは、もちろん、一発で決めるためではなく、パッと手を出して相手の出足を止め、そこから自分の形にもっていくために使っていました。

その後は肝炎もあって出世に時間がかかりましたが、その間に、あっという間に横綱に上がっていったのが輪島と北の湖。彼らを倒さなければ上に行けないわけですから、いい目標になったと思います。初優勝の昭和50年九州場所は13日目に北の湖との相星決戦。同門でよく稽古もした相手ですが、がっぷりでは勝てませんから、とにかく右上手を取らせないことは意識しましたね。この一番も、最後こそ上手を引かれましたが、うまく中へ入って下手投げで返すことができたと思います。

綱取りの昭和54年名古屋場所は、初日にいきなり栃赤城に敗れて、「もう昇進はない。大関として最低二ケタを目指そう」と切り替えられたのが良かった。一気に攻めた千秋楽本割の輪島戦は、長引いたらスタミナ負けするので、とにかく速い相撲を取ろうと考えた結果です。左を差す、右前ミツを引く、頭をつける、この自分の形になったら、とにかく速く攻めようというのは常に心掛けていたことでした。

私の昇進で4横綱時代になりましたが、年齢も30を超えていたし、「いつまで務まるかな」というのが正直な思いでした。横綱としてまず優勝1回を目指し、ダメならば潔く身を引こうと。しかし、新横綱の54年秋場所、いきなり3勝3敗と追い詰められ、「負ければ休場するしかない」と覚悟して迎えたのが7日目の旭國戦でした。

取組前、もう緊張して硬くなってどうしようもない。これは今だから明かせますが、切羽詰まっていた私は、このとき、「こんな方法もある」と、以前、親方衆から聞いた話を思い出し、出番前に誰にも分からないよう、力水代わりに日本酒を一口、口に含んで土俵に向かったんです。すると、不思議と緊張感が取れて落ち着けたのですが、そこまでしなければならないほど、綱の重圧は息苦しくて仕方がなかったのです。

その一番、旭國に下手投げで勝った私は大ピンチを乗り越えましたが、逆に旭國は右肩を痛めて引退することになった。下のころから互いによく稽古をし、土俵を離れれば釣りにいくなどよく遊んだ友人でしたから、悪いことをしてしまったなと。でも、場所中なので電話もできずにいると、逆に彼のほうから電話をくれて、「俺の分まで頑張ってくれ」と声をかけてくれた。あの一言には、本当に救われました。

友人の言葉を励みに、新横綱の場所を11勝と、取り切ったことが、続く2場所連続優勝につながった。まさか、全勝までできるとは思っていませんでしたが、あの2場所は、現役生活でも最も体が動いたし、心技体ともに最も充実していたことは間違いないですね。その後、左ヒジを痛めなければ、まだまたやれた自信はありますよ。あきらめずに常に上を目指し、大関陥落も乗り越え、30歳を超えても、やれるんだというところは示せたと思う。精一杯の、満足できる相撲人生でしたね。(元横綱三重ノ海=石山五郎氏)

対戦成績=三重ノ海16勝-27勝輪島、三重ノ海13勝-26勝北の湖、三重ノ海14勝-19勝若乃花

『名力士風雲録』第17号三重ノ海 魁傑 旭國 増位山掲載

昭和54年10月、明治神宮での4横綱そろい踏み。左から横綱2代若乃花、北の湖、輪島、三重ノ海
昭和54年10月、明治神宮での4横綱そろい踏み。左から2代若乃花、北の湖、輪島、三重ノ海、
後列は右から鷲羽山、出羽の花、三杉磯、玉ノ富士、栃光、増位山、鳳凰、隆の里。
行司は右が27代木村庄之助、左が24代式守伊之助

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