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2021-06-25

【連載 名力士ライバル列伝】増位山が語る「我が心のライバルたち」後編

切れ味鋭い足技を含め、土俵内外で多彩多芸ぶりを見せた増位山

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無類の闘志と卓越した技で、多士済々の時代を生き抜いた名力士たち。
元三重ノ海の石山五郎氏、元旭國の太田武雄氏、元増位山の澤田昇氏に、名勝負の記憶とともに、しのぎを削った男たちとの思い出を聞いた。

旭國のひと言が発奮材料になり大関昇進へ

三重ノ海さん、魁傑さん、旭國さんとは、下のころから本当によく稽古をしていました。当時巡業先で、本土俵で取れる若い衆は最初の5組10人ほど。それ以降だと関取衆が来て「お前ら顔じゃない」と追い出されてしまう。ですから、私たちはみんな最初の10人を目指し、朝4時に起きて本土俵へ向かったんです。それでも、「今日は一番乗りだ!」と思ったら、旭國さんがテントを張って寝ていたこともあった(笑)。それほどの意欲を持っていた力士たちが、のちに三役以上に上がっていったんです。

三重ノ海さんは、土俵上では闘志前面。あの張り差しで、得意の左四つにされたことがよくあったし、逆に、私が差し勝つと必ず極めてくる。あるとき、一門の稽古中に極められて、もう片手を着いて「参った!」と言っているのに、さらに極めてきたことがあった。それほどカッカするタイプです(笑)。下のころは、よく二人で横綱、大関をアンマ(稽古の調整台)しましたが、面白いのが、当時大関の琴櫻さんが、三重ノ海さんの得意の組手になると、まったく勝てなかったんです。やはり横綱に上がっていく人は、それだけの素質が十分にあるんですね。

魁傑さんは1年先輩ですが、教習所では同期生。知り尽くした相手だけに、昭和49(1974)年夏場所(5日目)の一番も両者警戒して攻めあぐねています。水入り後、内掛けにいく振りをした右足を払われ、首が上を向いてしまいましたが、何とかよくこらえましたね。こういう長い一番は、もったいなくてなかなか攻めに行きにくいんですが、最後は一気に勝負をつけにいきました。

旭國さんは、おそらく最も稽古をした相手ですが、技が多彩で、しかも体は小さいのに腰が重い。相撲もまあしつこくて(笑)、特に、あのとったりは、右を差して出ていくと必ずといっていいほど食らいました。だから、旭國さんの新大関初日の一番(昭和51年夏場所)も、右差しにいかず、すぐに上手を取りにいっています。注目してもらいたいのが、出し投げを打つ直前、私が左手を少し出して牽制していること。これで旭國さんは無双を警戒して右足を出せず、投げがきれいに決まるんです。互いに知り尽くしているだけにまさに読み合い。読みが外れたほうが負けるという感じでした。

昭和54年秋場所、私が久々に技能賞を取った場所で旭國さんが引退。そのとき、「大関が空いたからチャンスだぞ」と言われたのが発奮材料になりました。大関取りの55年初場所、初日の相手が輪島関。左差し手を持ち上げつつ、右からのおっつけが非常に強い。私が完全に上手相撲になって以降は、左下手十分の形にされて、一時は18連敗とまったく勝てなくなった。だから、外掛けで連敗を止めたこの初日の対戦は、輪島関の左下手を完全に嫌って、右四つに組めたことが最大の勝因。これで勢いづくことができたのは間違いないですね。

新大関の春場所前、出稽古に来た巨砲に右腕を極められた際にヒジを痛め、大関時代はそれが影響しました。後援会長と一緒に病院を回りましたが、握力を測ると後援会長よりもない。上手投げにいっても廻しを取った手が外れてしまうんですからショックでした。それでも、個性あふれる、本当の意味でのライバルたちに恵まれ、夢に描いていた「父子二代大関」も実現できた。幸せな土俵人生でしたね。(元大関増位山=澤田昇氏)

増位山 11勝-16勝 魁傑

『名力士風雲録』第17号三重ノ海 魁傑 旭國 増位山掲載

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