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2021-10-19

藤波辰爾が語る新日本プロレス旗揚げ前夜<プロローグ1>同郷である北沢幹之に直談判して日本プロレス入門【週刊プロレス】

 来年、新日本プロレスは創立50周年を迎える。オーナーこそアントニオ猪木、ユークス、ブシロードと変われど、半世紀も続いたプロスポーツ団体はプロ野球に次ぐもの。しかも統一機構がない民間企業としては特筆すべきでもある。

 そこであらためて、新日本プロレスの歴史を振り返ろう。ただ年代別に並べても面白くない。ここではいろいろな出来事、事件、名勝負、レスラー列伝などをちょっと視点を変えてクローズアップしていきたい。

 プロローグとして取り上げるテーマは“新日プロ旗揚げ前夜”。2019年9月、大阪市内のホテルで開催のトークショーにおいて藤波辰爾が日本プロレス入門当時から新日本プロレス旗揚げを語った貴重な言葉から、藤波がいた頃の日本プロレスをピックアップする。

 なお、これまでさまざまなメディアに記されてきた点と異なる部分があるかもしれないが、ここで取り上げるのは、新日本プロレス旗揚げメンバーである藤波辰爾の目に映った真実。その点は、ご了承いただきたい。

      ◇        ◇        ◇

 藤波が日本プロレスに入門したのは1970年。

「当時はレスラーになりたいからといってスッと入れるような空気感はなかった。特殊な技術っていうか、体がデカイとか、坂口さんじゃないけど柔道日本一とか何らかの実績があって、リングに上がっても申し分ない選手が選ばれてデビューするっていう時代だったんです。今みたいに入門テストもなければ、いろんなスポーツから、例えば相撲からプロレスに入ってくるとかいう時代だったんで。ただ僕はテレビで、大人の肩越しに恐々プロレスを見てて。あの頃、格闘技に対してはものすごい恐怖心があった。怖い。でも怖いもの見たさで見てて。それがだんだんやりたくなって、中学を卒業すると同時にプロレスラーになりたいって感じで」

 当時は「身長も160cmそこそこで、体重も60kgそこそこ」だった藤波少年。「ただプロレスが好き。好きなんだけど、実際に試合会場に行っても選手に話しかけることすらできないぐらい引っ込み思案っていうか。サインももらいたくても、声をかけられない。だからサインももらえない。好きでじっと見てるだけ」。

 そんな藤波だが、日本プロレスの事務所に入門志願を何通も送っていた。

「試合会場で買ったパンフレットに日本プロレスの住所が書いてあったから、僕がプロレスラーになりたいっていうのを知ってた兄貴が代わりに(入門希望を)書いて、写真を入れて送ったんです。でも返事も来ませんよ。なしのつぶて。それの繰り返しで。年に何度か九州巡業に来るんですけど、大分に来た時に直談判するしかないなって」

 そして同郷である北沢幹之が治療のため別府に滞在している情報を兄から聞いた藤波が、自転車で国東半島から別府まで行って直談判。「下関で試合があるから、そこに来なさい」と言われ、その言葉通り出向いた。それが1970年6月16日。そのまま巡業に帯同したことで、その日が藤波の入門した日となっている。

(つづく)

橋爪哲也

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