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2021-10-30

藤波辰爾が語る海外武者修行時代<1>ワクワク感と不安が入り混じる中で出発した西ドイツ【週刊プロレス】

海外での藤波辰巳(写真はメキシコ)

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 新弟子が次々と入門してきてデビューを果たし、選手層も熱くなってきた新日本プロレス。テレビもついて経営も安定し「明日どうなるのか?」といった不安はなくなった。そんな中で藤波辰爾が次に目標としたのが海外武者修行。

 1974年12月。「第1回カール・ゴッチ杯」に優勝して海外遠征への切符を手に。長州力に遅れること約10カ月、日本プロレスから行動を共にした先輩、木戸修とともに旅立った。行き先は西ドイツ。東西冷戦時代、まだベルリンの壁があった時代だ。

 今回からは、海外武者修行時代を語ってもらった。題して“新星誕生前夜”。
      ◇        ◇        ◇
 現在のヤングライオン杯の前身であるカール・ゴッチ杯。その記念すべき第1回リーグ戦に優勝した藤波。副賞としてつかんだのが海外遠征への切符だった。

 日本プロレス時代のジャイアント馬場、アントニオ猪木、坂口征二らを見ればわかるように、当時、海外武者修行はメインイベンターへの登竜門といわれていた。出発が決まったときの気持ちをこう語る。

「まず海外遠征できるっていうワクワク感と、もう一つは不安。生活習慣も違うし、言葉も通じないところへ行くわけですから。“どうしたらいいんだろう?”“何もできないんじゃないか?”っていうね。観光じゃないんだから。
 それまで猪木さんの付き人とかで海外に出たことは何回かあったんだけど、木戸さんと一緒だったけど自分一人で行くっていうのはね。まず会社から『西ドイツへ行きなさい』って言われて。その時は早く海外に出たいっていう思いばっかりで。海外に出るのが夢だったからワクワクしてたけど、だんだん出発の日が近づいてくると不安が大きくなっていって」

 一般企業でも海外赴任はあるが、生活基盤や事務手続きなど大半は赴任先の支社が世話をしてくれる。しかしプロレスの海外遠征はすべて自分でしなければならない。それは現在のWWEでもさほど変わらない。不安が大きくなっていくのは当然だ。

「まず言葉(日本語)が通じない。それに付き人もいないわけだし、“向こうでプロレスできるんだろうか?”って。会社から向こうのプロモーターに『藤波が行くから』って話を通してもらえてるけど、空港に着いたあとは僕らでやらないといけないから。

 最初は向こうのプロモーターがいろいろ世話してくれるけど、あとはすべて自分たちでやらないといけない。ギャラの交渉とか、スケジュールの管理とか。試合会場も自分で探して行かないといけない。

 僕は中学を出てすぐこの世界に入ったわけだから、英語もあまり勉強してなかったからね。英語は苦手だったし。WRESTLINGのスペルもわからなかったぐらいだから(苦笑)。しかもドイツでしょ。英語はまだ、ほかの外国人レスラーが周りでしゃべってたからなんとなくわかるようになっていったけど、ドイツ語はね……」

(つづく)

橋爪哲也

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