新日本プロレス50周年、アントニオ猪木のプロレス人生を振り返る上で外せないのが“インドの狂虎”タイガー・ジェット・シン。両者の闘いは“最高のライバル”と表現するだけではとどまらない血で血を洗う抗争に。 すべての日本人に憎まれ、単にヒールというくくりでは収まらないだけの存在になったことで新日本は日本一の団体に押し上げられた。シンこそ最大の功労者で、新日本がホール・オブ・フェームを設立するなら真っ先に殿堂入りすべき外国人レスラー。リング外を含めれば「日本で最も成功したレスラー」といっていいだろう。 ここに復刻するのは猪木デビュー50周年に合わせてのインタビュー。話はリング内にとどまらず、シンの人生観にまで及んだ。以下は、猪木に関してシンの口から語られた“トゥルー・ストーリー”。※2010年5月、アントニオ猪木50周年を記念して出版された「A・猪木50years~上巻」より。 ◇ ◇ ◇
――73年5月4日、リングサイドで試合を観戦していていた外国人が乱入。それがあなたで新日本とかかわるきっかけになったわけですが、それまでにほかのビジネスで日本を訪れたことはあったんですか?
シン いや、あの時が初めてだ。カワサキだったと記憶している。
――なぜ新日本だったんでしょう? あなたが馬場と同じフレッド・アトキンスのコーチを受けていることを考えると、全日本でもよかったと思うんですが……。
シン オールジャパンとニュージャパンが競争相手であることは知っていた。2つの団体を比較して、イノキの方が私の最大の敵になると感じたからだ。
――しかし川崎では猪木ではなく、山本小鉄を襲撃した。
シン それは今でもはっきり覚えている。彼は私が誰か知らなかった。私が視界に入って、ターバンを巻いた変なヤツがリングサイドに座っているという目で私を見ていた。そう感じたから彼を襲ったんだ。
――そこから猪木との長い闘いが始まったわけですが、当時の猪木の印象は?
シン まず、私は彼を素晴らしいアスリートと尊敬してきた。それはいまも変わらない。なぜかというと、それには厳しいトレーニングを積んで、テクニックを身につけないとなれないからだ。さらに常にグッドコンディションをキープしないといけない。私はインドでそれを学んできた。イノキの体つきを見て、ヒンズースクワット、プッシュアップ、ランニング……そういったトレーニングを積み重ねてきたアスリートだと感じた。私もそういうトレーニングをしてきたし、それがどれだけ厳しいことかも知っている。それにイノキはアマチュアスタイルのレスリングでも素晴らしいテクニックを身につけていた。だから最大の敵になると感じたわけだし、いまもイノキをリスペクトしている。
――しかしあなたと猪木の闘いは、決してテクニックを競うというものではありませんでした。むしろ気が狂ったように闘っていた。
シン それは私がイノキのワイフ(倍賞美津子)を新宿のショッピングセンター(伊勢丹)の前でスラップ(平手打ち)してからのことだ。イノキはその仕返しをしようとして向かってきた。彼の意識の中で何かが変わったんだろう。そして私は自分の身を守るためやり返した。そこから私とイノキの闘いはレスリングではなく戦争になった。
――その“伊勢丹事件”ですが、ミスター高橋が著書の中であれは“やらせ”だと暴露してますが……。
シン ノー。高橋がその本を書く前に私のところに連絡があって説明してきた。彼は新日本との約束が守られなかったといって怒っていた。私は「そう書いてカネが入ってハッピーになるならそれでいい」と伝えた。
――それ以降、2人の闘いはどんどんエスカレートしていきました。蔵前での火炎攻撃、大阪での腕折り……。
シン だからさっきも言ったように戦争だった。レスリングじゃない。ルールのない闘い。リング上では何が起こるかわからない。やるかやられるか。イスも使えばサーベルも使った。とてもシリアスな闘い。レフェリーがそばにいたが、そんなこと関係ない。猪木との闘いはいつも真剣なものだった。
(つづく)
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