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2022-03-04

【連載 名力士ライバル列伝】打倒・双葉山への策 われ、大横綱とかく戦えり――前田山前編

英気に満ちた荒々しい相撲で魅せた第39代横綱前田山

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戦前・戦中の相撲界において、
何よりの大目標が無敵・双葉山を倒すことだった。
その栄光を目指すことで強くなり、横綱の地位もつかんだ力士たちは、
どのように大横綱へ挑んでいったのだろうか。
彼らが残したコメントとともに振り返ってみたい。

“闘将”の細かな工夫

昭和14(1939)年春場所4日目の大金星を機にファン注目の黄金カードとなった「双葉―安藝」。

昭和16年春場所14日目にも物言い、取り直しとなる大熱戦を演じたが、惜しくも敗れて支度部屋に引き返してきた安藝ノ海に、声を掛けてきた同じ東軍の大関がいた。

「相当(双葉山を)悩ましてやったな。欲を言えば、もう少し突っ張ってやれば良かった」

前日に双葉山、その前々日には羽黒山と、敵軍のトップ二人を得意の猛突っ張りから破り、いわゆる“張り手旋風”を巻き起こした前田山である。

対戦成績こそ1勝7敗だが、全盛期の双葉山に最も肉薄したのは前田山だろう。双葉山が昭和2年春、前田山が3年の暮れと、入門時期が比較的近い二人は、一門は違えど取的時代からよく稽古をする仲だった。しかも、ともに負けず嫌いだけに、互いに激しく突っ張り合って譲らなかったという。

その“激しさ”は幕内での対決へも引き継がれ、14年春・夏場所には続けて水入りの大相撲。豪胆にして研究熱心。実は、前田山は対戦ごとに工夫をし、いきなり突っ張ったり、逆にふわっと立ったり、ハズで押しにいったりと、立ち合いの方法を変えていた。その工夫で双葉山得意の形を容易には許さなかったことが、接戦を繰り広げられた要因だ。(続く)

対戦成績=双葉山7勝―1勝前田山

※コメントは戦前の雑誌『野球界』、昭和44年の月刊『相撲』増刊「双葉山追悼号」などによる

『名力士風雲録』第25号 羽黒山 安藝ノ海 照國 前田山 掲載

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