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2022-02-25

【連載 名力士ライバル列伝】打倒・双葉山への策 われ、大横綱とかく戦えり――安藝ノ海後編

昭和14年春場所、双葉山を破る大金星を機に上昇気流に乗り、17年夏場所後に第37代横綱に昇進した安藝ノ海

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戦前・戦中の相撲界において、
何よりの大目標が無敵・双葉山を倒すことだった。
その栄光を目指すことで強くなり、横綱の地位もつかんだ力士たちは、
どのように大横綱へ挑んでいったのだろうか。
彼らが残したコメントとともに振り返ってみたい。

『今日は外掛けでいく、これしかない』

出羽海一門の対双葉山対策のキモは「左差し」と「外掛け」だった。双葉山は幼少時の事故で右目がほぼ見えないことを隠していたが、出羽海勢はそれにうすうす気づいていた。「制限時間前(当時は幕内10分)に立ち、見えにくい左(双葉山の右腰)に食い下がり、外掛けで倒す」。

横綱得意の右四つとなったのは誤算だったが、左上手を浅く引いて差し手を殺した安藝ノ海は、双葉山が2度、強引な右掬い投げに来て棒立ちになった瞬間、左を飛ばしての歴史的外掛けを決めた。

「実はその日の朝、稽古場に下りて駒ノ里といろいろやったんだが、『今日は外掛けでいく、これしかない』と言った。こうしてやるんだと、駒ノ里に説明したものだ。

最初の掬い投げにこられたときは、まだそれをやる体勢ではなかった。双葉関のほうも、何か様子をうかがうような感じがあったんじゃなかったのかな。2度目のとき右足を踏み込んで思い切り投げを打ってきたもんだから、その足へ外掛けにいけたわけだ」とはのちの安藝ノ海の回想。

『イマダモクケイニオヨバズ(未だ木鶏に及ばず)』と敗戦後、双葉山が残した言葉はあまりにも有名だが、ただ、その後9回の対戦(不戦1含む)で一度も安藝ノ海に星を譲ることはなかった。かの“大金星”一つで英雄・安藝ノ海の名は永遠に不動のものとはいえ、懸命に背中を追いながらも、追いつけない大横綱を、こういう言葉で称えている。

「双葉関は相撲を取れば取るほど強くなる。自分はただ、気力で取っているだけです」

対戦成績=双葉山9勝―1勝安藝ノ海

※コメントは戦前の雑誌『野球界』、昭和44年の月刊『相撲』増刊「双葉山追悼号」などによる

『名力士風雲録』第25号 羽黒山 安藝ノ海 照國 前田山 掲載

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