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2022-03-02

アントニオ猪木がスタン・ハンセン戦で暗黙のルールを破った秘策“逆ラリアット”…新日本プロレス歴史街道50年(22)【週刊プロレス】

アントニオ猪木のラリアット

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 プロレス界には明文化されていないルールがある。俗にいう“暗黙の了解”。そのひとつが、ほかの選手の得意技を使わないこと。特にオリジナル、フィニッシュホールドとして大切にしている技ならなおさらだ。そんな暗黙の了解を破ったのが1980年9月25日、広島県立体育館でおこなわれたアントニオ猪木vsスタン・ハンセンのNWFヘビー級タイトルマッチ。ここで猪木は、ハンセンが得意とするラリアットを放っていった。

 スタン・ハンセンが新日本プロレスに初来日を果たした1978年1月から、アントニオ猪木とのシングルマッチは何度となく組まれてきた。ただハンセンのパワー、馬力には苦しめられたがインサイドワークに欠け、2度目の来日(同年9月)あたりまではさほど難敵にはあらず。ラリアットをかわしてのバックドロップで仕留められる程度の大型パワーファイターでしかなかった。

 しかし1980年2月8日、東京体育館でおこなわれた一戦ではエプロンでラリアットを浴びてリングアウト負け。ここからハンセンは新日マットに定着したわけだが、同時に手を焼く存在にまでなってしまった。

 4月に王座奪回に成功したものの、『第3回MSGシリーズ戦』ではシリーズ中に防衛戦をおこない反則勝ち。さらにリーグ戦と優勝決定戦で激突。両者リングアウトと反則勝ちで、文字通り“不沈艦”に。そして9月の『ブラディファイト・シリーズ』では、決着戦としてNWF2連戦が組まれた。

 第1弾となった9月11日、大阪府立体育会館。場外乱戦からリング内に滑り込んだ猪木がリングアウトで勝利しての薄氷防衛。2週間後に控えていた再戦では王座転落の赤信号が灯るほど、ハンセンのパワーに押されていた。

 そして迎えた広島決戦(9月25日)。この闘いでも、終始ハンセンがパワーで押していた。猪木からすれば相手の暴走を誘って反則勝ちやリングアウト勝ちを狙うしかない感じ。だが、この日のハンセンは違っていた。大阪の轍は踏まないと、暴走しているように見えながらも冷静さがうかがえた。

 猪木の作戦に乗ってこない。王座転落は時間の問題かと思われたその時だった。ハンセンがウエスタンラリアットを狙って猪木をロープに振る。次の瞬間、返ってきた猪木は自らの左腕を差し出した。相打ちかに見えたが、ハンセンの左腕が猪木の首を刈るコンマ何秒か前にハンセンのノド元にヒットさせていた。

 あの有名な“逆ラリアット”が炸裂した瞬間だ。ただ、この時はまだ“掟破り”の枕詞はついていなかった。それがつけられたのは、名勝負数え唄の中で藤波辰巳(当時)が長州力の得意技であるサソリ固めを繰り返し使ってからだった。

 印象が強すぎてこのままフォールしたしたと記憶しているファンが多いと思うが、逆ラリアットが決め技ではない。予想だにしなかった一撃を浴びて、ハンセンに焦りが生じた。一気に勝負を決めようと再度ラリアットを仕掛けたが、猪木はこのワンチャンスを逃さなかった。しゃがんで回避すると、逆さ押さえ込みへ。ハンセンはこの技でカウント3を聞いた。

 今でも語り継がれる猪木の逆ラリアット。逆にいえば、そこまでしなければ勝てない相手にまでハンセンが実力をアップさせていたことになる。猪木とハンセンの数珠つなぎの激闘は翌年の広島決戦、最後のシングル対決まで続いていった。
(つづく)

橋爪哲也

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